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感謝が先、それから良くなる人生

2024年9日8日(日)枚方くずは教会 主日礼拝 宣教
テサロニケの信徒への手紙(一)5章16−22節(新約聖書・新共同訳 p.379、聖書協会共同訳 p.370)
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 いつも喜んでいなさい。
 絶えず祈りなさい。
 どんなことにも感謝しなさい。
 これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
 霊の火を消してはいけません。
 預言を軽んじてはいけません。
 すべてを吟味し、良いものを大切にしなさい。
 あらゆる悪から遠ざかりなさい。

新約聖書・テサロニケの信徒への手紙(一)5章16−22節(聖書協会共同訳)

▼過去の後悔と未来の不安

 先々週、風邪を引きまして、2日間ほど熱を出して横になっていました。
 最初の1日はがんばって本など読んでいたのですけれども、2日目にはそれにも飽きてしまい、朝から晩までボーっとしていました。
 熱でボーっとした頭でいると、ろくなことが浮かんできません。大抵思い出すのは、自分の人生の過去を遡って、あの時ああすればよかったのではないかとか、あの時こんなことをしなければよかったのではないか、あの時この選択を間違っていなければ、人を傷つけずに済んだのではないか……。
 こんなはずじゃなかったと思ってしまうようなこと。もっとこうだったらよかったのにと思ってしまうようなこと。そんなことが頭の中をグルグル巡ります。
 その一方で、未来のことについての不安がどんどん膨らんできます。
 自分はもうあと5年で今の仕事は定年になるけれども、その後どうなるんだろうか。どうせ自分の世代は年金なんて破綻しているだろうし、もし破綻してなくても、雀の涙くらいしか無いだろう。そうなると死ぬまで働かないといけないか。
 しかし、自分は聖書の教師なんてやっていて、再就職しようにも特別なスキルもなく、一体どうしたらいいのかな……なども、そういうことをつらつらと考えているうちに疲れてしまって寝てしまう……そんな連続でした。
 風邪が治って、元気になってきて仕事を始めると、そういう負のスパイラルのようなネガティブ思考は収まって、眼の前のことに集中できるようになってくるんですけどね。とにかく暇になると駄目です。
 そして思うんですね。
 過去を見れば後悔ばかり。
 未来を見れば不安だらけ。
 落ち着いた心で生きようとすれば、今に心を向けるしかない。今を一心に生きるしかない。それが平常心を保つ方法だと。
 そう思い直して、何とか日々を乗り越えてゆくわけです。

▼死の恐怖と宗教

 ところで、私が宗教の道に入ろうと思ったきっかけは、「死」というものに対する恐怖に囚われたことでした。最初に「死ぬのが怖い!」と強く思うようになったのは、小学校3年生の頃だったように思います。
 これも暇というものが良くなかったんですね。夜、布団に入って、まだ眠くないなあと思っているときに、良からぬ考えが頭に忍び込んでくるわけです。
 人間は死んだらどうなるんやろう。今ここに自分が「いる」という感覚は、これは人間の脳があるから認知していることやろう。人間の脳の認知能力なんて、例えばお酒を飲んだだけで歪んでしまう。
 私、親父がよく酒飲んで酔っ払って帰ってきてましたからね。お酒がこんなに脳の認知能力を歪めるのかということをよく見てました。
 あるいは事故に遭って脳が損傷を受けた場合とか、認知症になったときとかも、脳の認知が変わってくる。
 そもそも、睡眠中は意識が消える。脳が休んでいるだけで自意識というものは無くなってしまう。「私がここにいる」という認知は無くなってしまう。
 自分が生きていて何がありがたいかというと、今ここに自分がこうして存在しているという感覚がありがたい。そして、いろんなものを見たり聞いたり、味わったり触ったりする感覚がありがたい。
 でも、それらは全部脳が司っているものだから、脳が死んでしまったら、それは永遠に失われてしまう。意識を失った状態。それが永遠に続く。もう2度と目覚めることはない。2度と目覚めない。2度と目覚めない。2度と目覚めない……「ギャー!!」と、小学生の私は起き上がってしまうんですね。
 そんな恐怖の体験を何度もしているもので、その後「死とは何か」「脳とは何か」「自我とは何か」「永遠の命とは何か」ということを考えるようになり、やがて宗教や脳科学に興味を持ち出したということなんですね。

▼2人称の死を経験して

 このような死の恐怖も、大人になって働くようになって、日々の生活に追われるようになると、暇じゃなくなるので、忘れるようになりました。
 また、これは皆さん、私よりの人生の先輩の方々が多くいらっしゃるので、このような感覚をお持ちかどうかと思うんですけれども、40〜50歳を超える頃になると、あまり死ぬのが怖くなくなってきたんですね。生きてるのに疲れてくるというか、もうそろそろこのしんどいのから解放されたいな。ずっと眠るのもいいかなとか。
 そしてまた、この年齢になってくると、自分と同年輩の人が亡くなり始めるんですね。
 私は教会専属の牧師ではありませんけれども、それでもこの2〜3年の間に、いくつもの告別式、火葬式、納骨式などを行うことが続いて、自分にとってとても身近な、大切な人の人生の終わりというものに立ち会うことが多くなりました。
 特に私にとって大きな出来事になったのは、昨年の3月に中学生時代からの親友が亡くなったことです。
 彼は非常に苦労人で、経済的にも苦しかったし、人間関係的にも友人を作るのが下手くそで、敵も多かったし、相手によっては警戒心と闘争心をむき出しにして生きてきました。
 もちろん、そんな誰に対しても本音でぶつかってゆくような彼の人格に触れて、心が解放された人もいたし、彼を慕う人もたくさん現れたのですけれども、それでもやはり彼の人生は闘いの連続だったなあと思えてしまう。そんな人でした。
 最期はがんに冒されて、幸いにして緩和ケアで痛みは取り除かれていましたが、「しんどい、しんどい!」と声を上げながら死んでいったのが忘れられません。
 同級生が棺桶で眠っている姿を眺めながら、私は「こいつの人生、最初から最期までしんどかったなあ。こいつは何が喜びやったんやろう。こいつが何が楽しかったんやろう。どんな風に自分の過去を振り返っていて、未来にどんな夢や不安を抱いていたのかな……」などと、思いを巡らせていました。お連れ合いさんとの暮らしはとても大事にしていて、それは彼の大きな支えになっていたようでしたけどね。
 彼は自分の人生を振り返って、「これで良かった」と思えていたのかな……と、そんなことが気になりました。そして「今、俺が死に直面したら、どう考えるだろうか」と自問自答もしました。
 まあ、もうすぐ死ぬという苦しみや、意識朦朧としたなかで、そんなことを考えていられるどうかはわかりませんけどね。そういうことは考えられるうちに考えといたほうがいいかもしれません。

▼救いとは何か

 昨年、本を出すことができて、今はその続編を少しずつ書いているんですけれども、その2冊の本を書く中で「救いってなんだろうな」とよく考えることがあります。
 神学者の偉い先生や信仰の篤い人は、「人間の罪をイエス・キリストが十字架にかかったことで贖い、人間は赦されて神と和解する。それが救いだ」と教義で説明するかもしれませんね。
 けれども、私は人間の救いって色々なものがあるように個人的には思うんですよね。必ずしも今言ったような形而上学的な目に見えないものだけではなくて、目に見える「この世的」なもの。たとえば、何日も食事ができなかった人が一膳の飯にありつけることとか。喉が渇いて仕方なかった人が一杯の水にありつけることとか。長年苦しみ、悩んでいた病気が治ったとか。そういうことがその人にとっては重要だし、そんな時に、「罪が……」とか「神との和解が……」とか、あまり考えていないんじゃないかなと思うんですね。
 そして、いざ自分の人生の終わりに対峙しなくてはいけない。自分の人生な何だったんだろうと、改めて顧みた時に、何が救いだと言えるんだろう、とよく考えるんです。

▼生きていて良かったな

 私は、現時点では、一番の救いというのは「生きていて良かったな」と思えること。これが救いではないかなと思っています。「まあいろいろあったけど、最終的には「私の人生これでよかったかな」と思えたら、もう大勝利ではないでしょうか。
 私は過去の後悔の中に落ち込むことが時たまあると最初に申し上げましたけれども、「最終的にはこれで良かったんじゃないかな」と思えたら、もう十分救われたなと思うし、これも十分贅沢なことなんじゃないかなと思うんです。
 そのように思えるために大事なことは何か。
 それが今日の聖書の箇所に書いてあると思うんですね。
 今日お読みした聖書の箇所を、もう一度読んでみたいと思います。

 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
 “霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。

テサロニケの信徒への手紙(一)5章16−22節(新共同訳)

 喜ぶこと、祈ること、感謝すること。そして、霊の火を消さないこと。これは自分の胸の中にある本当の心に目を向けることだと思います。また、預言を軽んじない。これは聖書の言葉を大事にすること。そして、すべてを吟味し、良いものを大事にし、あらゆる悪いものから遠ざかること。人生の甘いも酸いも噛み分けた人間には、そんなに難しいことではないと思います。
 特に最初にある3つは、「人生これで良かったかな」と思えるために、大事なことではないかなと思います。
 喜ぶこと、祈ること、感謝すること。これに、「いつも」「絶えず」「どんなことにも」という言葉がついています。
 良いことがあったから、嬉しいことがあったから、ラッキーだった、ハッピーだったと思うことがあったから感謝する。それが普通の、ありがちな考え方かなと思います。
 けれども、そうではなく、感謝するから人生が良いものになる。
 人生が良かったから感謝するのではなく、感謝することが人生を良いものにしてゆくのではないでしょうか。

▼思ったような人生でなくても

 私は、「生きてきてよかったな」と思える、いちばんの救いを得るために、「いつも喜ぶこと。絶えず祈ること。どんなことにも感謝すること」をお勧めしたいと思います。
 それが、たとえ思ったような人生でなかったとしても、「そんな人生こそが良かったのだ」と思えるよう秘訣ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
 祈ります。

▼祈り

 私たちの命と愛の源である神さま。そして私たちひとりひとりの造り主である神さま。
 今日も、あなたに与えられた命をこうして生かされてあることを心より感謝いたします。また、こうして愛する皆さんと一緒に、あなたに礼拝を捧げることが出来ます恵みを感謝いたします。
 神さま、願わくは、あなたの御手に私たちひとりひとりを包み、慈しんでくださいますことを、改めてお願いいたします。
 そして、ひとりひとりの全ての人が、あなたに与えられた人生を良く生き、後悔のない人生を送ることができますように。
 ひとりひとり全ての人が、「生きてきて良かった」を思えるように導いて下さい。そして、そのために感謝の日々を送る信仰を、私たちに与えて下さい。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。
 アーメン。


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