見出し画像

空しい人生の日々を楽しく生きる

2022年9月18日(日)徳島北教会 主日礼拝 説き明かし
コヘレトの言葉9章7~10節(旧約聖書・新共同訳p.1045、聖書協会共同訳p.1030-1031)
有料記事設定となっておりますが、無料で最後までお読みいただけます。有志の方のご献金をいただければ、大変ありがたく存じます。
最後に動画へのリンクもあります。「読むより聴くほうがいい」という方は、そちらもどうぞ。

▼空の空

 今日読んだ聖書の箇所は、「コヘレトの言葉」という変わった題名の本です。
 「コヘレト」、「コーヘレス」とカタカナで書かれたりもしますけれども、元々は「集める者」という意味があります。人々を集めて、教えを説く者という意味で、昔は「伝道者の書」とか「伝道の書」とも呼ばれていました。
 このコヘレトの言葉でよく知られているのは、「空の空、空の空、一切は空である」という1章2節の言葉ですね。新共同訳では「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」と訳されていますけれども、それ以外の日本語訳では文語訳から聖書協会共同訳まで、すべて「空の空、一切は空である」になっています。
 また、3章の「何事にも時がある」(3.1以降)という言葉もよく知られていますね。「生まれる時、死ぬ時」とう言葉から、「戦いの時、平和の時」という言葉で締めくくられる一連の詩です。
 このコヘレトの言葉は、他の旧約聖書の書物のような、神との契約に忠実に生きるとか、神の御心にかなう者が祝福されて、神のみ旨に背いたから罰されるとか、罪の贖いのための献げ物をするとか……とか、そういうかなり力の入った世界観とはちょっと違っているというか。なんとも言えない達観したような境地を感じる書物です。
 誰が言ったかは忘れましたけれども、この「空の空」という言葉から、「無」あるいは「諸行無常」といった東洋思想との共通点を感じて、この書物に親近感を覚えるという話も聞いたことがあります。

▼永久に生きられるか

 今日お読みしたコヘレトの言葉9章では、「死んだら終わり」ということが書いてあります。
 今開いていただいているであろう新共同訳の1044ページ、9章の3節には、「太陽の下に起こるすべてのことの中で最も悪いのは、だれにでも同じひとつのことが臨むこと、その上、生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂っていて、その後は死ぬだけだ」と、その投げやり感は半端ではありません。
 9章5節「生きているものは、少なくとも知っている。自分はやがて死ぬということを。しかし、死者はもう何ひとつ知らない。彼らは報いを受けることもなく、彼らの名は忘れられる。その愛も憎しみも、情熱も、既に消えうせ、太陽の下に起こることのどれひとつにも、もう何のかかわりもない」。
 死んだ後、人間はこの世で生きた生き様、あるいは信仰深さによって、天国に行ったり、地獄に落ちたりといったことを考える人がいます。けれども、このコヘレトは、聖書の中に収められている本にもかかわらず、死んでしまえば何も無いし、何も残らないのだと言い切ります。
 今日読んだ9章の10節後半にも、「いつかは行かねばならないあの陰府には、仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ」と書かれています。コヘレトにとっては、死後は「無」なのです。
 果たして、私たちが死んだ後には、本当に何もないのでしょうか。人は死ぬとどうなるのでしょうか。

▼永久の命

 以前もお話したかもしれませんけれども、私がもともと宗教の世界に入るきっかけになったのは、死ぬという事への恐怖からでした。
 人は死んだらどうなるのか。キリスト教では「永遠の命」という言葉があるけれど、本当に永遠に生きるということがあるのだろうか。「もし永遠に生きることができるなら、そうしたい!」と小学校の時は思っていました。
 そんなわけで、これも前にも言ったかもしれませんが、私に一番最初に聖書という本に出会わせてくれたのは「エホバの証人」という宗教団体に所属していた友だちだったんですね。
 で、エホバの証人に入ると、永遠に生きることができると聞かされます。この世の終わりが来て、その後、エホバの証人の信者だけが永久に生きることができる、と教えてくれたんですね。
 ただ、結局私はその団体に入るところまで、あまり本気には入れ込まないまま終わったんですね。そして、その友達とは、進学先が違ったのでそのままお別れになり、結果的にエホバの証人ともお別れになりました。
 なぜエホバの証人の教えに本気に入れ込む気になれなかったというと、結局、科学的に見て、人間が死ぬということは避けられないだろうな、という諦めのような気持ちの方が強かったからだと思います。
 「まあ、実際には無理やろな」と疑ったから、その友達と物理的に距離ができると自然にやめてしまったんですね。ここで、「イチかバチかこの教えに賭けてみよう」と思うところまでは本気にはなれなかった。科学的に無理だろうなというのと、もともと怠け者なので、そんなに物事に必死になれなかったというのもあったと思います。
 ただ、エホバの証人の教えの中で、実践的な生き方のガイドみたいな本がありまして、それは道徳の教科書みたいで興味深かったです。特に非暴力主義については影響を受けたと思います。あれはずっと手元に置いておいてもいいかなと思うほどいい内容のものでした……と言いながら、今はどこにあるかもわからなくなってしまっているんですけれどもね。

▼クオリア

 さて、そもそも私が「死ぬのが怖い」と思っていたのはどういうことなんでしょうか。
 私の感覚はこんな感じです。
 いま自分が生きていて、何かを見ている、何かを聞いている。そうして何かを感じるといった経験をしている、そしてものを考えたり、ある感情を抱いたりしている。
 特に何かを見ている、聞いている、感じている主体である自分が、全部無くなってしまうというのが怖かったんですね。「私がここに生きている」という感覚が無くなってしまうのが怖い。
 そして、死ぬというのは「永眠」というけれども、要するに眠ってしまって意識が無くなってしまう。それが二度とも戻らない。いつまでも眠ったままで本当にもう二度と目覚めることがない。二度と……! 絶対に……! と考えていると、眠れなくなるくらい怖くなったんですね、小学生の時は。
 これは私自身の感覚ですし、他の人の場合はまた違うでしょうし、死ぬのなんか別にもともと怖くなかったという人もあろうかと思います。
 この、何かを見ている、聞いているという質感のようなものを意識する脳の働きを「クオリア」というそうです。
 たとえば、私たちが「赤い」と思っているものは、ある周波数の電磁波が目に入ってきた時に脳が「赤い」と解釈して意識に伝えています。あるいは別のある周波数の震動が入ってくると何かの音に聞こえるように脳が解釈して、意識に伝えています。「りんご」をかじると、何らかの物質が舌に触れて、ある化学現象が起こっているだけなんだけど、それを意識は「甘い」とか「酸っぱい」と感じるように脳が解釈してるんですね。
 けれども、私たちはあたかも本当にそこに「赤」があるように、あるいはそれが「りんご」だったら「りんごの味」が本当にあるように感じます。
 この感覚の質感がクオリアというもので、私はこれが好きで、気に入ってて、これが永遠に無くなってしまう、というのが私の恐怖の実体だったように思います。

▼死ぬのが怖くなくなればよい

 でも、それは小学生の時の私のことで、それから何十年も経つうちに考えるようになったのは、やはり死というものは避けられない、それは仕方ないと。
 ただ、要するに問題なのは、自分というものが無くなってしまうことへの恐怖心であると。だからに怖くなくなりさえすれば、それでいいじゃないか。どうせ死ぬんだから、怖くなければそれでええじゃないか。じゃあどうしたら怖くなくなるのかな……。そんな風に次第に考えるようになりました。
 そのあとまた変遷がありまして、鬱病を患うようになってから「死にたい」、もっと正確に言うと「消えてしまいたい」と思うことが頻繁に起こるようになりました。苦痛が無くて死ねるんだったらいっそのこと死んでしまいたいと思うような。
 かつては死にたくなくて仕方なかった自分が、死にたくて仕方がないという精神状態を味わうようになるなんて、皮肉なもんですよね。
 そして、ちょっと鬱がましになって、最近になって思うのは、「なーんだ、だんだん歳をとるにつれて、自然に死ぬことへの恐怖って減ってくるもんだな」ということですね。「まあしょうがないか」みたいな?
 痛かったり苦しかったりするのは嫌だなぁとか。だから、あまり詳しくはないですが、どうせ死ぬなら尊厳死という形が望ましいかなぁと、個人的な意見としては思いますね。

▼死後はあるか、そしてどう生きるか

 さて、死ぬのはしょうがないかなと思い始めると、私の場合は、今度は2つのことが気がかりになってきます。
 1つは「死んだ後は自分のクオリアはどうなるのかな?」ということ。もう1つは「死ぬまでどう生きようかな?」ということです。あるいは、その2つは人によっては関連し合っているのかもしれません。
 死が「私のクオリアが完全に消えてしまうこと」だと考えるのであれば、これまた生き方がいくつかに分かれるかも知れません。
 たとえば、死によって全てが消えてなくなるから、今を大切に生きようと考えるか。あるいは、どうせ消えてなくなるのだから一生懸命生きてもしょうがないと考えるか。
 あるいは、死んだ後もクオリアを意識している自我が残って、死後の世界とでも言える場所に行けるのなら、「次があるのだから楽観的に生きていこう」と思えるのかもしれませんし、ひょっとしたら「次があるから適当にやっててもいいや」と思う人もいるかもしれません。
 古今東西の宗教は、たぶんそういう「次があるから適当にやっててもいいや」と思う人を戒めるために、「ちゃんと生きていないと、罰として地獄に行くぞ」という脅しをかけてきたのだろうと思います。
 ということは、死後の世界というものがあるという前提でものを言っている宗教が多いということです。
 けれども、ユダヤ教というひとつの宗教の中の文書でありながら、珍しくこのコヘレトの言葉は、死んだ後には何も無いということを言うのですね。

▼ニヒリズム

 このコヘレトの言葉は、「空しい」という言葉を何度も繰り返します。そして今日の箇所でも、死んだ後には何もないと言います。もちろん「いつかは行かなければならない陰府の世界」と言いますが、そこには何も無いのだと言い切るのです。
 つまり、どんな生き方をしても、死んでしまえば同じこと。人の人生には意味はないと言っているようなものです。
 これは、ニヒリズムという思想に相通じるものがあると思います。
 ニヒリズムというのは、何か悲しいことや辛いことがあったから、人生を否定的に捉えて、生きていてもしょうがないと言って絶望感や悲壮感に満たされてしまうこととは違うそうですね。
 そうではなく、人生は良くも悪くもない。ただ意味がないというだけのことだ。だから、かえって自由に、何も描かれていないキャンバスに自分の描きたい絵を描いてゆく。
 誰からも「これが理想的な生き方だ」といった押し付けをされる筋合いも無いし、「このように生きれば天国に行ける」とか「人はこう生きなければ地獄に落ちる」といった余計な戒めもない。完全に自由なのだ。この自由を喜ぼう、というのが、ニヒリズムというものらしいのですね。
 そういう意味なら、コヘレトの言葉はニヒリズムに近いと言えるかもしれません。
 コヘレトの言葉は、どうせ死んだら何も無くなってしまうから、やけくそに生きようとは言いません。ただ、今日読んだ9章のように、人生を楽しむことを勧めます。

▼労苦と楽しみ

 もう一度読んでみましょう。
 「さあ、喜んであなたのパンを食べ、気持よくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れていてくださる。どのようなときも純白の衣を着て、頭には香油を絶やすな。
 太陽の下、与えられた空しい人生の日々、愛する妻と(……これは古代の文書にありがちなことで、男性に向かって書かれた書物だからこういうことになるのですけれども……)愛する妻と共に楽しく生きるがよい。それが、太陽の下で労苦するあなたへの、人生と労苦の報いなのだ。
 何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。いつかは行かねばならないあの陰府には、仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ。」(コヘレト9.7-10)
 やけくそに、刹那的に生きよとは言っていません。人生の労苦を否定していません。手を付けたことは熱心にやりなさいと言っています。
 右側のページ、8章の15節でもこんなことをコヘレトは言っています。
 「それゆえ、わたしは快楽をたたえる。太陽の下、人間にとって、飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。それは、太陽の下、神が彼に与える人生の、日々の労苦に添えられたものなのだ」(コヘレト8.15)
 快楽主義者というわけでもありません。その楽しみは日々の苦労に対して与えられるべき、当然の報いだろうというわけです。人生を楽しむというのは、日々の苦労あってのことで、手につけた仕事はちゃんとやって、楽しめることを楽しんで、この空しい人生を生きなさいと言っているのですね。

▼コヘレトとイエス

 そしてコヘレトは、「空しい、空しい」と言いながら、神の存在は否定しません。
 コヘレトの言葉には、もうひとつよく知られた言葉があって、終わりの方の12章1節に「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに、「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに」という言葉があります。
 「空しい、空しい」と言いながらも、神の存在をいつも意識しながら生きることを勧めるんですね。自分の存在には意味がないことを知りながらも、そんな自分は神に造られたものだと言うのです。
 この人生に特に大した意味は無い。神が私を造ってくださったことにも、実は大した意味は無い。ただ、ひととき与えられたこの人生の時間を、楽しんで生きよと言っているのですね。
 実はイエスとコヘレトは相通じるものがあると言う人もいます。イエスはコヘレトのように生きているというのですね。
 確かにイエスはこんな言葉を残しています。
 「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。信仰の薄いものたちよ」というものがあります。マタイによる福音書の6章30節です。
 そしてその流れで、イエスは34節で「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」とも言います。
 たとえ明日死ぬとしても、今日神さまは私たちを愛でてくださっているじゃないかと。だから、その装いを楽しんで生きようじゃないか。あしたはあしたの風が吹くだろうと。
 宗教改革者のマルティン・ルターが言ったという言葉も私は思い起こします。本当は彼が言ったのではなく、16世紀当時のドイツの普通のことわざだったという説もありますが、こんな言葉があります。「たとえ明日、世界が滅びても 今日、私はリンゴの木を植える」。そういうタイトルの短編小説集もあるみたいですね。
 今日、明日死のうとも、世界が終わろうとも、最後には何も残らなかったとしても、それはそれでいいじゃないかと。
 それでも、手につけたことはしっかりとやり遂げて、与えられた命を生き切ろうじゃないかと、コヘレトは呼びかけているように思いますし、意外とイエスの感覚にもそういったところがある。
 皆さんはいかがお感じになりますでしょうか。
 祈ります。


ここから先は

0字

¥ 100

よろしければサポートをお願いいたします。