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われらはひとつ…それでいいの?

2022年7月10日(日)徳島北教会 部落解放祈りの日礼拝 説き明かし
ガラテヤの信徒への手紙3章28節(新約聖書・新共同訳p.347、聖書協会共同訳p.340)
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▼部落解放祈りの日

 皆さん、おはようございます。
 今日、7月10日は、日本基督教団では「部落解放祈りの日礼拝」という日になっておりまして、特に部落差別、および他のあらゆる差別を無くす決意を新たにすることを――本当はそれは一年中を通して取り組まないといけないことなんですけれども、特にこの日、あらためて心に決めようとする日なんですね。
 加えてですね、今年2022年は「水平社宣言」が出されてから100年目の節目の年でもあります。
 水平社宣言というのを皆さんご存知でしょうか。私よりご存知の方も多いのではないかと思いますけれども、水平社というのは、1922年といいますから第二次世界大戦より前ですけれども、今から100年前に結成された全国的な部落解放組織で、現在の部落解放同盟の前身に当たります。
 この全国水平社ができる前の反差別運動というのは、部落の外の人の同情や理解を求めて、差別を無くしていこうというものだったんですけれども、それではダメだということを悟った西光万吉という人を筆頭にして多くの人たちが、自分たちの力で部落の解放を勝ち取ろうとして設立したのが水平社なんですね。
 私、ちょっと調べていて、今まで知らなかったんですけれども、この水平社という名前の由来には、イギリスのピューリタンの中でも最も左派のレヴェラーズ(水平派)のいうのがあるそうで、あとで紹介するキリストの「荊の冠」とはまた別に、意外なところでキリスト教とのつながりもありました。
 この水平社が主張したのは、「差別は差別する側の問題である」ということで、これは現在は色々な差別の問題に取り組む時の基本的な原則ですけれども、その事をはっきりさせたのが水平社だったわけです。
 その全国水平社の創立大会が京都で開かれたのが、今からちょうど100年前。その時に採択されたのが、日本初の人権宣言である水平社宣言なんですね。

▼水平社宣言

 ここで水平社宣言の全文を読んでみたいと思います。すばらしい、力強い内容です。読みますね。

 全󠄁國に散在する吾が特殊部落民よ團結(だんけつ)せよ。
 長い間虐󠄁められて來た兄弟よ、過󠄁去半󠄁世紀︀間に種々(くさぐさ)なる方法と、多くの人々とによつてなされた吾等の爲の運󠄁動が、何等の有難︀い効果を齎(もた)らさなかつた事實(じじつ)は、夫等(それら)のすべてが吾々によつて、又他の人々によつて每(つね)に人間を冐瀆󠄂されてゐた罰であつたのだ。そしてこれ等の人間を勦(いたは)るかの如き運󠄁動は、かへつて多くの兄弟を墮落させた事を想へば、此際吾等の中より人間を尊󠄁敬する事によつて自ら解放せんとする者の集團運󠄁動を起󠄃せるは、寧︀(むしろ)必然である。
 兄弟よ、吾々の祖︀先は自由、平󠄁等の渴仰者︀(かつこうしゃ)であり、實行者︀(じっこうしゃ)であった。陋劣(ろうれつ)なる階級政策の犧牲者︀であり男らしき產業的殉敎者︀であつたのだ。ケモノの皮剝ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剝取られ、ケモノの心臟を裂く代價(だいか)として、暖󠄁い人間の心臟を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の惡夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸(か)れずにあつた。そうだ、そして吾々は、この血を享(う)けて人間が神︀にかわらうとする時代にあうたのだ。犧牲者︀がその烙印を投げ返󠄁す時が來たのだ。殉敎者︀が、その荆冠(けいかん)を祝︀福︀される時が來たのだ。 吾々がエタである事を誇り得る時が來たのだ。
 吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦(きょうだ)なる行爲によつて、祖︀先を辱しめ、人間を冐瀆󠄂してはならぬ。そうして人の世の冷たさが、何(ど)んなに冷たいか、人間を勦(いた)はる事が何であるかをよく知つてゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃(がんぐらいさん)するものである。
 水平󠄁社は、かくして生れた。
 人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光あれ。
 大正十一年三月

 この宣言の細かいところまで踏み込んだ話を今日はする時間もありませんし、また完全に解説するのは、私の力ではできません。
 100年前の文章ですから、色々問題が無いとは言えません。たとえば「兄弟よ」とか「男らしき」とか、基本的に男中心で書かれている宣言で、水平社の中に女性差別が無かったかといえば、そうとは決して言えません。
 しかし、それでも、日本最初の人権宣言がこうして生まれたということの意義は大きいわけです。
 この後、この水平社宣言に関して、キリスト者として、これは触れておかなくてはならないな、ということを述べさせていただきます。

▼荊冠を祝福される時

 特に、この水平社宣言の中の、「殉敎者︀が、その荆冠を祝︀福︀される時が來たのだ」という言葉は、明らかにキリスト教にその起源があります。荊冠、つまり荊の冠というのは、イエスが殺される時に被せられたもので、被せられた上に、その上から頭を叩かれて、棘が頭に刺さって、血を流したというものです。このイエスの殉教と、いじめられ、殺されてきた被差別部落の人たちのことが重ね合わされています。
 そして、最初の水平社の旗にも、現在の部落解放同盟のロゴマークにも、この荊の冠が使われています。我々は、この部落解放のしるしとして、イエスの受けた苦しみや痛みを重ねながら理解しなければならないと、逆に問題提起をされていると受け止めたいと思います。
 ちなみに、同志社大学の神学部の礼拝堂には十字架が掲げられていませんで、その代わりに、この荊冠、荊の冠が天井から吊り下げられています。神学館の礼拝堂を設計する際に、何が同志社のチャペルにふさわしいかを神学部の先生たちが懸命に考えて検討した結果、そういうことになったそうです。ですから、神学部のチャペルに入った人は、頭上に荊の冠が浮いているのを目にすることになります。これもまた、イエスの受けた苦しみを忘れるな、ということを我々に教えてくれるんですね。
 それは、苦しみを受けた人と共にイエスが苦しんでくれているということを思い起こさせると共に、苦しみを与えた側の人間には、「あなたがイエスを見捨て、イエスを殺す側に立ってしまっているのではないですか」ということを問いかけようとする、そういうしるしとなっているわけです。

▼私自身の罪の告白

 ここで、私自身の差別者としての告白をしたいと思います。
 つい最近のことですが、ネット上で知り合ったある友人との会話の中で、ZOOMで話していたその友人の口から、「いろいろとね、私の住んでいるところも難しい、しんどいことがあるんですよ」という発言ができました。
 「何がしんどいの?」と訊くと、「ほら、自分の住んでいる所の近くにそういう地区があるんですよ」と言います。部落のことを言っているのはすぐにわかりました。
 「近くに住んでいて、何がしんどいの?」と訊くと、「いやねえ、私のところまでそういう所じゃないかと思われて、色々言われたりするじゃないですか。それがしんどいんですよー」と言います。
 その瞬間、これはおかしいな、と私は思いながらも、「その『しんどい』と思うこと自体が差別なんじゃないの?」という一言が言えませんでした。そして、そのまま話はうやむやになって、別の話題に移っていきました。
 そのことを、そのあとずっと悔やんでいます。普段、差別はいけない、反差別のために戦わなくてはいけないと思っているつもりの自分でも、こんな体たらくです。目の前で起こっている差別をちゃんと問題にすることよりも、目先の人間関係の方を優先してしまいました。そんな目先の穏やかな人間関係も、こういうことでは見せかけの、嘘の人間関係だということも思い知らされました。
 部落差別というものは、もう表立った形では無くなってきているんじゃないか。部落差別の存在そのものが忘れ去られつつあるんじゃないか。このまま話題にしなければ、自然に消えてしまうんじゃないか。もう反差別の運動は新しい時代に合わせて、次の段階に進むべきなんじゃないか……。そういう声が聞かれるようにもなりました。
 しかし、差別というものは、表立った形では見ることが少なくなっただけに、逆に根深い問題になっているということを、私はいまお話ししたことから、改めて感じました。
 つまり、何気ない、どうということの無い、ありふれた会話、ありふれた風景の中に、差別が根付いてしまっているということ。それがあまりにありふれた風景であるだけに、差別は無意識のレベルにまで浸透しているということなんです。その差別が、ありふれた場面でひょっこり顔を出すことに、私は抵抗することができませんでした。
 私が取り組まなくてはいけないのは、このようなありふれた日常、それを失いたくないような平穏な日常の中にある差別なんだ、これは手強いぞということを、私は認識しました。

▼エタであることを誇る

 このようなありふれた、何気ない日常の中に差別を埋もれさせてしまうような状況に対して、水平社宣言の言葉は切り込んできます。
 先程紹介した「殉敎者︀が、その荆冠(けいかん)を祝︀福︀される時が來たのだ」という言葉に続いて、「吾々がエタである事を誇り得る時が來たのだ」という言葉が続きます。
 「エタ」というのは、漢字で書くと「穢れが多い」と書きます。差別用語です。「穢れ多い者」と呼ばれてきた、その差別用語を、逆にそれが自分たちの誇りなのだと宣言しています。イエスと同じように殺される者であることを誇り、穢れたものだと言われてきたことを誇りにするのだと言っているのですね。
 これは、何気ないありふれた日常の中に埋もれている差別を、あえて掘り起こしてハッキリさせるということにつながるのだと思います。差別用語を使わないようにしようということだけでは、問題を解決したことにはならない。むしろ、差別用語を逆手に取って、「ここに差別があるじゃないか」ということを叩きつけてゆくということなのだと思います。
 最近、「クィア神学」という言葉がキリスト教界でも聞かれるようになりました。主にLGBTQ+に対する差別に抵抗する動きの中から提唱されるようになった言葉です。「クィア」というのは元々「奇妙」とか「変態」という意味でしたけれども、その読み方を逆手に取って、クィアであることを誇るという動きから積極的に使われるようになりました。これは、100年前に「エタであることを誇る時が来たのだ」という水平社宣言と相通じるものがあると、私は思います。
 それは、「そこに差別があるじゃないか」、「おまえは差別に加担しているじゃないか」ということを、私に気づかせてくれる言葉です。

▼イエスにあってひとつ

 ここで、やっと聖書の話が出てきます。今日は聖書の言葉に対する批判です。というより、聖書の言葉も使い方には気をつけようね、というお話です。
 パウロは、ガラテヤの信徒への手紙の中で、「ユダヤ人もギリシア人もありません。奴隷も自由人もありません。男と女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからです」と言っています。
 一見、民族差別や身分差別・職業差別を否定するような言葉に見えます。しかし、この言葉を目にするたびに、私はちょっと引っかかりを覚えるといいますか、少し違和感を覚えてきました。なぜなら、この言葉は現実にある差別を覆い隠すような効果を持っているのではないかという疑問を生じさせるからです。
 「ユダヤ人もギリシア人もない」。いや、現実にはユダヤ人とギリシア人の間には溝があるのです。「奴隷も自由人もない」。いや、現実には奴隷も自由人もあって、その間には格差があるのです。「男と女もありません」。しかし実際には男と女の扱われ方の差はしっかりと存在します。
 もちろんパウロの言わんとしていることは、そういうことではないということはわかっています。彼が言いたいのは、同じキリスト教会のエクレシアの中で、クリスチャンになるなら割礼を受けるべきだとユダヤ人が言っているのに対して、ギリシア人のクリスチャンたちは、「そんなユダヤ人の風習は必要ない」と言って対立したりしている。
 あるいは、自由人は自由な時間にやってきて愛餐に与っているのに、奴隷労働の後に遅れてやった人たちが来てみると、食べるものが無くなってしまっているというおかしな事態が起こっていることとか。
 あるいは、愛餐の時に、女性が食事の用意や給仕をしていて、男性がもっぱら食べているとか。
 そういった様々な矛盾に対して、「そんなことでは本当のエクレシア、本当の教会ではないのだ」と言いたい。「我々はキリスト・イエスにあってひとつなのだから」と。それがパウロの本意なのでしょう。

▼われらはひとつ、それでいいのか

 けれども、ひとたびこの言葉が独り歩きし始めると、「ユダヤ人もギリシア人もない。奴隷も自由人もない。男も女もない。我々はひとつなのだ」という言葉が、あたかも差別などなかったかのように機能してしまう。かえって、あるはずの差別を覆い隠してしまうことになってしまう。そういう風に利用されてしまう危うさを持った言葉だと思うのですね。
 本当は、ユダヤ人はユダヤ人であることを誇ることができ、ギリシア人がギリシア人であることを誇れること。奴隷は奴隷であることを誇りとする。これも誤解を招くかもしれませんが、奴隷制があることを告発するために、あえて私は奴隷だと名乗ること。「我々はエタであることを誇るべき時が来たのだ」ということと相通じる告発。そして、女が自分が女であることを誇り、男が自分が男であることを誇れること。つまり、その人が、自分が自分であることにプライドを持てるような世の中にしていかないといけないのかなと思います。
 私は、私自身が、事を荒立てないようにしようとするあまりに、目の前の何気ない、ありふれた情景の中にある差別に、すぐに対応することができませんでした。それが、差別を覆い隠すことに加担してしまっているのだということに気付かされました。
 そんな私ですから、何も偉そうなことは何も言えないのですが、自分の中にある差別、差別を容認してしまう心の弱さを克服していかないといけない。その妥協の無さを身に着けなくてはいけないのかと思わされているところです。
 差別をするということは、同じ神様に作られた人間を冒涜することだということです。ということは、人間を神様にかたどって作られた神様に対する冒涜でもあります。
 誰の命も神様にとっては大切な作品ですから、この一人一人の神の作品を大切にすることができないのは、神への冒涜であり、人間の尊厳に対する冒涜です。この冒涜を私はやめたいと思っていますし、社会からこのような冒涜を無くさなければならないと思っています。
 皆さんはどのようにお考えになりますでしょうか。
 今日の説き明かしは以上です。
 お祈りをさせてください。

▼祈り

 神様。
 今日、あらゆる差別からの解放を祈る礼拝を守っています。
 差別の無い世の中を私達は志します。しかし、それを本当に実現する勇気が欠けていることがあります。
 そのような自分を悔い改めます。どうか自分を変える力を与えてください。
 小さく見えるけれども、日常化してしまっているがゆえに根深い差別を無くすことができますように。
 誰もが自分のことを、そのままの自分として、生きることができますように。
 そのような世の中に少しでも近づけてゆくことができるように。できることを自分で見つけて、実行させてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。
 アーメン。


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