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命を養う人へのリスペクト

2024年10日6日(日)徳島北教会 主日礼拝 説き明かし
詩編65編10−14節(旧約聖書・新共同訳 p.897、聖書教会共同訳 p.880)
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 あなたは地に臨んで水を与え
 豊かさを加えられます。
 神の水路は水をたたえ、地は穀物を備えます。
 あなたがそのように地を備え
 畝を潤し、土をならし
 豊かな雨を注いで柔らかにし
 芽生えたものを祝福してくださるからです。
 あなたは豊作の年を冠として地に授けられます。
 あなたの過ぎ行かれる跡には油が滴っています。
 荒れ野の原にも滴り
 どの丘も喜びを帯とし
 牧場は羊の群れに装われ
 谷は麦に覆われています。
 ものみな歌い、喜びの叫びをあげています。

旧約聖書・詩編65編10−14節(新共同訳)

▼木を枯らしかける

 私はペットを飼っております。
 ペットと言っても動物ではありません。観葉植物です。ベタベタする関係ではありませんが、そこにいて当たり前にように感じているという意味では、家族のようなものです。これが2人おります。
 しかし先日、この2人を枯らしかけました。
 ある日、夜、仕事から帰って来たら、2人がしゅんと萎れかけていたんですね。しんなりして、今にもぱったり倒れそうになっていたんです。
 朝、仕事に出る時はしゃんとしていたんですけど、夜帰ってきたら、突然萎れていました。何枚も枯れた葉っぱが落ちていました。
 つまり、その日の朝までは、彼らは(彼らなのか彼女らなのかは本当はわかりませんけど)、倒れないように頑張っていたんですね。でも、おそらく夕方ごろ、突然力尽きたわけです。
 そういう事情がわかると、なんとなくいじらしいといいますか。だんだんと弱っていくのではなく、ギリギリまで健気に頑張ったというところに、感心したといいますか。「よく頑張ったね」と声をかけて、葉っぱを撫でてやりたくなりました。
 ですが、悪いのは私ですよね。私の責任です。今度はすぐに罪悪感でいっぱいになりました。
 急いでたっぷりと水をやりました。「大丈夫かな? 復活するかな? このまま枯れてしまうのかな?」と心配でしたが、翌朝には見事にシャンと元気になり、葉っぱも緑色に輝いていました。
 それからは、ちゃんと忘れないように、土が乾いたら水をあげるということを、忘れないように心がけています。
 そもそも、大事な家族のようなものだと言うのなら、家族に食事も与えないなんて、とんでもない虐待親ですよね。そこにいて当たり前のように思っているあまり、保護者としての自覚が足りなかったと、反省もしています。

▼心の健康のバロメーター

 心の病で入院していた人が退院して、ちゃんとやっていけるかどうかを測るバロメータの中に、家で植物の面倒を見れるかどうかというのがあると、随分昔に聞いたことがあります。
 噂程度のものですが、その判断基準は妥当なんでしょうか。それともただの根拠のない噂も過ぎないんでしょうか。
 しかし、そのとき自分が家の中に一緒に住んでる観葉植物の水やりも忘れてしまうくらい心の余裕がなくなってしまっていたのは事実なので、やはりその時こころの健康状態が悪かったのは事実かなと思うんですね。
 逆に、ちゃんと生き物の世話をできるようなら、心がしっかりしてるというしるしですし、お世話をすることで心が整ってくるということも、またあり得ると思うんですね。
 ですから、たとえばペットを飼っている人や、家庭菜園などをやっている人というのは、本当にすごいなと思うわけです。やっている方の多くは「そんなことは大したことではない」とおっしゃるかもしれませんが、ペットや植物と一緒に暮らしているから心が病んでしまった、なんてことはないんじゃないかと思うんですね。

▼農業実習

 生き物の世話をするといえば、私が連想するのは、農業を営んでいる方々のことですね。畑や田んぼをやるにしろ、酪農をやるにしろ。農業というのは、人間がコントロールできない自然環境と渡り合って、自然界から恵みを引き出し、私たちの口に入って、命を養ってくれる仕事をしてくれているわけで、感謝の念を抱かざるを得ないという思いを抱いています。
 そして、自分が農業をやれと言われても、そんなにマメでもタフでも粘り強くもない自分には到底無理だと思うので、そういう意味でも、尊敬を禁じえません。
 実は、ずいぶん昔に、キリスト教学校の関係で、三重県の愛農学園というところで農業体験をやらせてもらう機会があったんですね。というか、聖書科の教師が集まる研修会だったんですけど、その時わたしは幹事といいますか実行委員だったんですね。
 そこで、ただ研究授業をやったり、座って討論会をやったりするだけでは面白くないと思ったので、1日だけですけれども、体験実習をやらせてください、と今から考えれば先方には迷惑な話だったように思うのですけれども、お願いしたわけです。
 それで、私が担当させていただいたのでは牛舎でした。朝の4時くらいだったか5時くらいだったかに起き出して、重い牛の餌を運んでいって牛の顔の前に持っていったり、牛が垂れ流すを糞を含めて、コンクリートの床を掃除して回ったり、すごい匂いのなか、結構な重労働で音を上げそうになりました。これを毎日やっている生徒さんや先生たちには頭が下がりました。
 他の先生達は、鶏舎に派遣されて、もっぱら卵を集める作業ばかりの楽な作業をあてがわれていたみたいで、ちょっと羨ましかったです。決して鶏の世話が楽なはずはないのですが、卵集めしかやらせてもらえてなかったということなんでしょうね。
 そういう1日だけではありましたけれども、こういうことを毎日やっているのかと思うと、酪農をやっている人に対するリスペクトを抱かざるを得ません。

▼見下される農業者

 翻って、聖書の世界を見れば、ルカによる福音書でのクリスマスの物語で、イエスの誕生を最初に知らされたのは羊飼いたちで、羊飼いは生き物の世話で毎日定期的な休みを取ることができず、ユダヤ教の戒律で定められていた毎週の安息日にも礼拝ができなかったので、それを理由に「神に忠実ではない者」「汚れている者」として差別を受けていたということを思い起こします。
 また、日本でも長い間、農民は身分制度では最も下のほうに位置づけられ、特に土地を持たない小作農においては、年貢を納めることで生活が大きく圧迫されていたらしい。
 それに、酪農家が育てた家畜の屠殺は、もっぱら穢多村、被差別部落の人たちが担っていた歴史があり、そうやって、自然界の命とやりとりをしている人たちが差別される。
 そういう人たちが生産したものを食べて命をつないでいた人たちが、自分たちがお世話になっている生産者を差別するという構造が、長い歴史の中で形作られてきているのではないか。
 そして、今になっても、明らかにはっきりとした差別というのは、姿を隠してきたとは言えど、第1次産業に本格的に従事している人を、リスペクトするという精神は、まだまだこの日本では育っていないのではないかと思います。
 その証拠に、日本が農業を大切しているとはとても言い難い。ちょっとネットで調べると、日本の食料自給率は38%と出てきます。
 私はこの夏、仕事でカナダに行きましたが、カナダの食料自給率は266%です。自分の国で食べるぶんの倍以上の生産力がある。いかにカナダが農業を大事にしているかがわかります。
 日本が38%ということは、残りの62%は海外からの輸入に頼っているということになります。「食料安全保障」という言葉がありますが、もし戦争にでもなったら、日本はたちまち飢餓で負けます。そういうところをわかっていて、政府は使用期限が切れているような武器ばかり買うのに予算を使っている。それをまだ増やそうとしている。
 「食の安全保障」ができなくて、何が安全保障かなと思いますが、皆さんはどのようにお考えになっていますでしょうか。
 このような社会を作ってしまった背景に、農業というものの意義を認める思いが欠けていること、農業従事者を無意識のうちに軽んじている私たちの心の実態、つまるところ、農業従事者に対する差別があるのではないかと、私たちは社会レベルでも個人レベルでも、反省しなければならないのではないかと思います。

▼農業従事者へのリスペクト

 今日お読みした聖書の箇所は、イスラエルの王さまであったダビデという人が、自分の国における農業の収穫の喜びを叫んでいる歌です。
 教会暦で言うところ収穫感謝の時期よりは、およそ1ヶ月ほど早いのですけれども、昨今の米騒動で、この聖書の箇所を連想しましたので、もう一度読んで、味わってみたいと思います。

 あなたは地に臨んで水を与え
 豊かさを加えられます。
 神の水路は水をたたえ、地は穀物を備えます。
 あなたがそのように地を備え
 畝を潤し、土をならし
 豊かな雨を注いで柔らかにし
 芽生えたものを祝福してくださるからです。
 あなたは豊作の年を冠として地に授けられます。
 あなたの過ぎ行かれる跡には油が滴っています。
 荒れ野の原にも滴り
 どの丘も喜びを帯とし
 牧場は羊の群れに装われ
 谷は麦に覆われています。
 ものみな歌い、喜びの叫びをあげています。
 (詩編65編10−14節:新共同訳)

 神さまが土を備え、雨を与え、麦の豊作と羊の群れの豊かさを与えてくれたことを感謝して、喜びの叫びを上げています。全部神さまの恵みによるものです。
 そして、その神さまの恵みを私たちは、口に入れて、食べて命を保っています。
 あまり特定の職業の人を手放しで称賛するつもりはなく、どんな職業でも大きな意義を持っているとは思いますし、農業従事者の中にも全く問題がない人ばかりではないと思いますが、ひとつの理想の形が、今日の聖書の箇所では表されているように思います。
 農業というのは、現在それに従事している方々みなさんがそういう意識を持っているかはわかりませんけれども、一般論としてでも、神さまが与えたこの自然界の恵みをうまく使い、お世話し、そこから更に大きな恵みを引き出す、神さまと人間の仲介者のような仕事ではないかということは言えると思うのですね。そうであってほしいと思います。
 そして、私は、そうやって天地を創造した神さまと私たち人間を仲介するような仕事をしている農業者の人たちに対するリスペクトを、言葉にしておきたいと思うんです。

▼水を与え、耕す人のように

 さて、話は戻りますが、最初に私は、観葉植物や家庭菜園やペットの話をしました。これも神さまに与えられた命をお世話し、命を養う行為ではないかと思います。大事な役割です。
 そうやって考えてゆくと、私たちはこの世で他の動植物や(まあすべての動植物と共存をするのが難しい場合もありますけれども)、たとえば他の人間と関わってすることも、実はことごとく命を養う営みであると言うこともできるかもしれません。
 私たちは誰か他の人と接して行うことは、仕事であろうとなかろうと、人の命を養う仕事。たとえば、観葉植物に水をやったり、声をかけたりすることと似ているのではないかなと、私は聖書の言葉を読んだり、この説き明かしのお話を考えている間に、思いました。
 私たちは、互いに人と関わる時には、人に水をあげるような気持ちで、また、そこにお互いが生きている場所の土を耕すような気持ちで、言葉を発したり、行いをしたりするのが良いのかも知れません。
 そして、相手とのやり取りの中に、何らかの恵みを発見し、それに感謝できる心を備えておくべきなのかもしれません。
 それが今の私にできているかというと、もちろん心もとないですし、むしろ逆のことをやっている場合も多々あると思います。
 しかし、今はいま一度心を入れ替えて、水を与え、耕す人のように、そして感謝する人として生きてゆきたいと思います。
 祈ります。

▼祈り

 全ての存在に命を与えてくださった、創造主である神さま。
 今日もあなたに与えられたこの命を生きることができますことを心から感謝いたします。
 また、あなたは創造してくださったこの世界からの恵みを受けながら、私たちが命をつなぐことができていますことを、感謝いたします。
 更には、その恵みをあなたの被造物から取り出すわざを行っている人たちにも感謝したいと思います。
 これを受けて、私たちも互いに仕え合い、己の生きる場を耕して、互いに良いものを生み出し合い、感謝し合う生活を送ることができますように、どうか私たちを導いて下さい。
 そしてまた、私たちが互いを大切にできない時、それに気付かせ、悔い改めることができますように、私たちの心を整えて下さい。
 いつもあなたの愛を思い起こし、その愛を自分にも、人にも向けることができますように。
 語り尽くせぬ感謝と願いを、ここにおられる全ての人の中にある思いを合わせて、イエス・キリストのお名前によって、お聴き下さい。
 アーメン。

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