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平和をつくるという反逆

2024年8日4日(日)徳島北教会 平和聖日礼拝 説き明かし
創世記4章1-16節(旧約聖書・新共同訳  p.5-6、聖書協会共同訳 p.5)
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さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。
 彼女はまだその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。
 主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。
 主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。
 カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。
 主はカインに言われた。「お前の弟アベルはどこにいるのか。」
 カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」
 主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」
 カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」
 主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、誰であれ七倍の復讐を受けるであろう。」
 主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。
 カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。

創世記4章1−16節(新共同訳)

▼カインの末裔

 おはようございます。今日は8月第1日曜日、日本基督教団では「平和聖日」と位置づけられていて、第二次世界大戦での日本基督教団の戦争協力、戦争への加担の責任を反省することから始まって、現在にいたるまで地上で行われている全ての戦争が無くなり、平和が実現されることを願い、行動することを改めて覚える日となっています。
 そして、今日お読みした聖書の箇所は、同族の者と戦い、殺すという人間の特徴を表すかのようなお話。旧約聖書の序盤にある創世記の、よく知られた「カインとアベル」の兄弟の物語です。アダムとエバの夫婦から生まれた2代目の人類で、早々と2代目にして殺人事件が起こってしまう。それも兄弟殺しである、というショッキングな物語です。
 この兄弟は、それぞれ献げ物を主にささげますが、主が兄のカインの献げ物(農産物)よりも弟のアベルの献げ物(子羊の肉)のほうを喜んだんですね。そこでカインは怒ってしまった。怒りに燃えるカインに対して主は、「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」と言うんですが……ここはちょっとカインが可哀想な気がしますね。どうして主は、カインの献げ物とアベルの献げ物を平等に扱わなかったのか……。
 これは、一説には、古代のイスラエル民族が、羊などの家畜を焼き尽くす献げ物として神さまに捧げていたので、主は肉の献げ物が好きなのだという話になっていると言われることもあります。
 実際、畑の作物を中心にした定住民と、羊を放牧しながら移動する遊牧民の間には対立があって、畑に入り込んだ羊を連れ戻そうとして村や町に近寄った遊牧民が、略奪者と思われて定住民に殺された、といったこともあったそうです。
 そういう被害者意識もあって、「我々遊牧民はこうやって殺されてきたんだ」、「農耕民・定住民は殺人者だ」というような話が作られたのかもしれません。
 しかし、この物語ではアベルは死んでしまい、生き残って子孫を残していくのはカインの方です。「カインの末裔」という言葉もありますけれども、人類は皆、殺人者であるカインの子孫だというわけです。
 ひょっとしたら、あくまでこれは推測ですが、もともと遊牧民が農耕民に殺されるという被害者意識に基づいた物語、あるいは嘆きの物語があって、それが後になって、「人類は皆人殺しの子孫なのだ。人間とは同じ人間を殺してしまう生き物なのだ」という人間に対する洞察の物語へと編集し直されていった……という成り立ちで、こんな話ができあがってきたのかもしれません。

▼神の無力な愛

 とにかく、この創世記の最初の部分に当たる物語、特に2章から4章では、人間の2つの悲しい性が描かれています。
 最初のアダムとエバの物語では、人は神さまとの約束を破ってしまうものだということ。すなわち、神に背を向けて、神とのつながりを絶って、自分勝手に生きてゆく存在なんだということ。そんな人間に対して神さまは、「あなたはどこにいるのか」と探し回ります。
 そして次の世代のカインとアベルの物語では、人は人同士で殺してしまうのだということ。そんな人間に対して神さまは、「何ということをしたのか」と嘆きます。
 食べてはいけないと約束したはずの木の実を食べられてしまい、「あなたはどこにいるのか」と人間を探す神さま。
 兄弟を殺してしまった人間に対して、「何ということをしたのか」と嘆く神さま。
 神は人間が好き勝手なことをして、自ら破滅してゆくのを止めることもできない。そんな情けない神さまが描かれています。人間は善悪の木の実を食べて自由になった。自由になったら最初に人間がやったことは殺人だった。人間とはまず「殺す存在」「殺す生き物」なのだ、という洞察がここにある。
 ひとたび殺人を犯してしまったカインは、楽園を追放されます。そして、自分に出会う者は自分を殺すだろうと恐れます。ひとたび殺す存在になってしまったら、彼を待ち受けるのは殺し殺されるような世界しかないのだ、という世界観に支配されてしまったのかもしれません。
 しかし、主は無力かもしれないけれども、カインを愛している。カインが殺されることのないようにと、しるしを付けてくれます。カインに特別な力を与えるわけではありませんし、武器を与えるのでもありません。主が直接守ってくれるわけでもありません。
 ただ、「私はこの人は愛していますから、この人をひどい目に遭わせないでください」という願いを込めて「しるし」をつけます。それが主がせめてものできることだったんですね。
 カインの末裔は、殺し殺される恐ろしい世界を進んでいかなくてはいけないし、神さまはそんな世界でも無力なのですが、少なくとも神さまがこの人を守ってほしいと願い、この人を愛しているのだという「しるし」はつけている。
 だから人間がその愛に気づいて、互いに殺し合うことをやめなくては、ということを示している。そんな願いがこの物語に込められているのかもしれません。

▼宗教の恐怖

 話は戻りますが、この物語の「人は人を殺す生き物である」 という洞察は、非常に的を得ていると言ってもよいのではないかなと思います。
 私たちホモ・サピエンス(ホモ属サピエンス種)は、他のホモ属を抑えて生き残り、現在の地球の支配者になりました。他のホモ属、いわゆるネアンデルタール人(学名ではホモ・ネアンデルターレンシス)や、ホモ・ハビリス、ホモ・エレクトスなど、サピエンスも含めると全部でホモ属は8つの種に分かれていたんだそうですけれども、現在生き残っているのはサピエンスだけです。
 「サピエンス」というのは日本語に直すと「知恵がある」という意味ですけれども、その知恵をホモ・サピエンスは一体何に使ったのでしょうか……。
 これも一説によればですけれども、ホモ・サピエンスは、他のどのホモ属よりも戦争が強かったから生き残ったのだという考え方があります。最も残虐なホモ属がサピエンスだったと言う人もいます。ホモ属のなかでいちばん残虐で戦争に熱心だった、そして同じホモ属を殺し尽くした。だから、唯一生き残った。まさにサピエンスこそ人殺しの種(しゅ)であり、「カインの末裔」と呼ばれるに相応しいと。
 そして、そのサピエンスの強さの原因となったのが、宗教ではないのかという考えもあります。
 特に宗教に関して言うと、サピエンスの脳は、「ここにはない。見えないものをイメージする、想像することができる能力」を獲得する段階に、他のホモ属より一歩先んじて進化したというのですね。見えない存在を意識することができる。つまり宗教の始まりです。
 サピエンスはその見えない存在によって繋がっているという意識を持ち、それによって他にはないような団結心を強めた。それが、ホモ・サピエンスの、他にはない戦争の強さを獲得するのに役立ったというんですね。本当なんでしょうか?
 食物や住処といった目的のためだけではなく、自分たちを結びつけている目に見えない絆、それは部族の一体感や、自分たちの部族が何か特別なものによって結び付けられ、守られているという感覚。そして「我々はどこから来たのか」という共通の始まりを持っているという意識。更には、そのような大きな幻想に包まれ、繋がっているという安心感と誇り。そして、それがやがて部族の守り神というイメージに発展します。
 「自分たちは固有の存在だ」というグループの共同幻想は他の部族も持っていますから、部族同士の衝突は、神と神の戦争に発展します。敵は神に逆らう者たちであり、完全に抹消するまで滅ぼし尽くしてもかまわない、ということになります。
 食物や住む場所を確保するためだけなら、追い払って終わりです。他の生物種なら、そこで戦いは終わりです。しかし、戦いに神が関わり始めると、「滅ぼし尽くすまで殺さなくてはならない」というものに変わっていきます。
 「なになに教」といった確立された体系的な宗教になる以前から、ホモ・サピエンスは、集団で共同幻想を抱くというレベルに脳が進化した段階で、戦争に強い団結力と、個人よりも大きなもののために命を捨てるという不屈の闘争心を手に入れることで、他のどの種族よりも戦争に強い種になったのだのですね。
 そしてそれは、今になっても、民族とか国家とかイデオロギーとか宗教といった(それらは全部「宗教的」と言ってもよいとも思いますが)、そのような、個人を超えた大きなもののために血で血を洗う争いを続ける人類の戦争にも見られる傾向です。
 人間とは戦争するものであり、戦争がホモ・サピエンスを地球上で最も繁栄した動物にした。そして今、その戦争好きな体質がホモ・サピエンス自身を危機に陥れているとも言える。その根底には宗教的なものがある、と考えることもできるというわけです。

▼一神教は好戦的か?

 ところで、キリスト者は戦争好きなのでしょうか?
 キリスト教が歴史上、数多くの戦争の背後や根底に横たわってきたことは事実です。
 日本では「日本は多神教だから平和主義だ。キリスト教やイスラームのような一神教は戦争好きだ」と言う人が今でも結構います。多くの神々が共存しているから、宗教戦争が無い。一神教はひとりの神しか認めないから排他的だ。だから宗教戦争が起こる、というわけです。
 これはちょっと考えたら大間違いだということがわかります。
 世界的に見れば、仏教徒やヒンドゥー教徒だって東南アジア、南アジアでは頻繁に戦争をしていますから、多神教だから平和主義というのは成り立ちません。
 日本人は多神教徒が多いですが、日本人も東アジアで何度も侵略戦争をしかけていますし、そもそも戦国時代には日本人どうしで血で血を洗う戦争にあけくれていました。
 また、そもそも日本人は一神教徒に対して冷酷だと思います。日本でキリシタンが絶滅の危機に瀕するまで迫害を受けたことを考えると、多神教徒は決して平和主義ではありません。
 そういうことを言うと、「キリスト教こそがいちばん戦争をしてきたではないか」と反論を受けるのですが、そう言ったからといって多神教徒の日本人が残虐ではないという証拠にはなりません。「おまえだってやっただろう」という水掛け論になってしまいます。
 多神教徒は多神教徒で固まってしまい、多神教徒でない人に対して頑なになります。どっちもどっちなんですね。
 そうなると、一神教だから好戦的だとは決して言えない。一神教でなくても、ホモ・サピエンスだから好戦的なんだとしか言いようがないのではないかと思うのです。
 だから、キリスト教が無くなれば地上から戦争がなくなるか。そんなわけはありません。人間は須く戦争好きなのだと思います。

▼キリスト教はちょっと違う

 でも、キリスト教は他の宗教とちょっと違う点もあると思うんですね。
 どこがちょっと違うかわかります……?
 キリスト教は、「敵を愛しなさい」、「剣を取る者は剣で滅びる」、「七の七十倍赦しなさい」、「平和を作る者は幸いである」、「右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさい」……といった教えを掲げています。
 つまり絶対平和主義、非戦論の根拠となるような言葉を、イエスが残しているという点。ここがキリスト教の特質です。
 そして、このような絶対平和主義、非戦の理想を掲げながら、それをキリスト教会やキリスト教国のほとんどが守れていない。そこがキリスト教の他の宗教とちょっと違うところではないかと思います。
 たとえばイスラームだと、「入られたら戦う」という原則があります。基本的には専守防衛なのですが、外敵が侵入してきたら戦うという考え方です。もちろん、本当に専守防衛になっているのか、何を持って侵略・侵入と解釈し、反撃と言えるのかについては議論が分かれます。けれども、少なくとも避けられない戦いは否定しないという点で、イスラームは現実主義です。
 この点で、多くのムスリムは自分たちの現実主義に誇りを持っています。私は、イスラームの勉強のためにマレーシアに行った時、「キリスト教は自分でできないことをスローガンにしている」と笑われたことがあります。
 自分が守れてもいない絶対平和主義・非戦論を掲げ続けている。掲げているにもかかわらず、守れないまま2000年近くも多くの人の血を流し続けてきてしまった。この自己矛盾がキリスト教の特徴です。これが他の宗教とちょっと違う、いや、かなり違う点ではないでしょうか。

▼平和を作るという反逆

 私は、この現実主義的ではないというキリスト教の特質こそ、掲げ続けるべきではないかと思っているんですね。
 そもそも、ホモ・サピエンスが本来的には平和主義的ではないんです。
 個人的な人間関係においては、いかにも平和的な、誰に対しても思いやりがある人であったとしても、国や民族やイデオロギーや宗教が違うと、途端に不信感を表し、警戒心を煽り、偏見と差別意識が掻き立てられ、敵対心に陥ってしまう。それがホモ・サピエンスのデフォルトだと思っておいたほうがいいで。
 しかし、これに対してイエスは「敵を愛しなさい」、「右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさい」と言う。つまり、イエスの命じていることは、人類にとっては「不自然」なものなんですね。イエスの命令は、ホモ・サピエンスの基本的な傾向に反するものです。
 にもかかわらず、私たちはイエスの命令こそ、いちばん大切だと信じている。……信じているはずです。私たちがイエスに従うということは、ホモ・サピエンスの傾向にあえて反抗する、抵抗するということになります。平和を作るというのは、ホモ・サピエンスなら当たり前に持っている好戦的な体質に対し、挑戦することであり、抵抗することです。反逆と言ってもいいかもしれません。
 これは、単に無気力に無抵抗に殺されるだけだという諦めではありません。平和を志すという反逆を、この世で当たり前だとされている勢力に対して実行していこうという。それがクリスチャンの企てです。
 私たちはどれだけ「自然に」戦争に向かってしまう心に抵抗できるでしょうか。どれだけ「不自然な」平和を愛し、作り出そうとする心に立つことができるでしょうか。
 あえて「不自然」を命じたイエスに着いてゆきたいと思います。
 お祈りをいたしましょう。

▼祈り

 愛と命と平和の源である神さま。
 今日の平和聖日、敬愛する方々と共に、あなたに礼拝を捧げることができますことを、心から感謝いたします。
 平和を思い、考えるこの日、この地球上で多くの戦争が起こり、それを命令する者たちが自らの正義を一方的に主張し、一歩も譲らずに攻撃の手を緩めない現状に心を痛めています。
 また、すでに多くの人が残虐に命が奪われているにもかかわらず、まだこれから新しい戦争を行おうとしている為政者、戦争ができる体制を勧めている為政者たちもいます。
 神さま、この愚かな人間をお赦しください。
 私たちは、あなたの御心を離れて、罪深い世界を作り上げてしまいました。どうかお赦しください。
 しかし神さま、あなたは私たちのこの罪深い世界の只中に、あなたの御子イエス・キリストを送ってくださいました。そして、イエスさまは私たちに、私たちの罪深い本性に反して、平和を求めることを教えて下さいました。
 神さま、今一度、私たちがあなたとイエスさまのもとに立ち返り、あなたの御心である平和を、この世に作り出すことができますように、どうか私たちを導き、押し出し、支えてください。
 私たちが平和を求めて働く時、それを叩き潰そうとする勢力も現れるでしょうけれども、どうかそれに立ち向かい、抵抗し、平和を守るわざに固く立つことができますように、その勇気と力を与えてください。
 そして、私たちが間違ったことをしたり、傷つけたり、傷ついたり、挫折したり、疲れてしまったりした時には、どうか労りの手を差し伸べてくださいますように。
 あなたに赦しと願いを求めます。イエス・キリストの御名によってお聴きください。アーメン。


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