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イエスの人間中心主義、人権主義について

イエスという人は、自分で確信的にやっていたかどうかはわからないが、極めて人間中心的、人間至上的な価値観の人だったのではないかと思うことがある。

彼の教えと行動は、当時の人々が「神が定めたことだ」と思い込んでいたことへのアンチテーゼに満ちている。

例えば、当時貧困や病気などの苦しみは神が与えたものだと理解されていた。それらは本人あるいは本人の先祖が何らかの神の怒りに触れる罪を犯したから、その報いとして罰されているのだと。

そして、人間にできることは、神に宥めの献げ物として動物の犠牲を献げることや、清めの期間を設けて共同体から排除し、清まったと祭司が判断すれば、規定の儀式を経てから共同体に戻ってよし、というものだった。

ところがイエスという人は、ここに「癒す」という行為を持ち込んだ。そして「あなたの罪は赦される」と自分の権威によって宣言した。神の定めによって共に食べてはならないとされていた階層の人々とも食事を共にした。

これは人間には決して許されていないことだった。それは神が定めた宿命への反抗であり、挑戦であり、冒涜である。だから祭司たちは、イエスを殺さなくてはならないと判断したのだろう。そうしないと、イエスやイエスによって神の裁きという呪縛から解放された人々によって、社会秩序が完全に覆されてしまう。

イエス自身が、自分の運動がそのような、現代人が言うところの人間中心主義、人間至上主義、あるいは人権を意識的に志していたかは定かではない。少なくとも彼自身は神を完全に信じていた。神は彼にとってアッバ(パパ)であった。それは自分が神に近い者だと思っていたのだと読むこともできるが、逆に神を自分たち人間にとても近い、親しい存在だと思っていた可能性もある。そのことが彼を、神至上主義と人間至上主義の中間に置いている。

イエスの死後、イエスのフォロワーたちは「イエスの行動は神への冒涜ではなく、実はイエス自身が神であったのだ」という解釈と説明をひねり出した。それは、イエス運動が孕んでいた当時の神信仰に対する破壊性を中和し、毒抜きをするのに役立った。

しかし、そうすることで、キリスト教はイエスがいかに人間中心主義的、人間至上主義的、人権主義的であったかを見失ったのではないか。そしてそのことが、キリスト教が神の権威によって人権を蹂躙する歴史を長引かせた原因になったのではないか。

イエスを神に祭り上げてしまうことが、キリスト教における人間尊重を永らく阻害する結果になった。というのが今日の時点での私の推測である。

これに反対する人は、中世以前の神至上主義に立って「お前は間違っている。お前は冒涜者だ」と裁くだろう。私は近代以降の人間至上主義の影響を受けた人間だ。理解し合えることは無いだろう。


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