考える人
ロダンの有名な作品に「考える人」という像がある。
筋肉質な男性が手の甲を顎に押し当てて思想に耽る様子を表したブロンズ像。
有名な、とは言ったものの、どうして有名なのかも何がすごいのかもわからないし、そもそもロダンがどんな面してるのかも知らない。
それでも「考える人」と聞けば誰もがあの気難しそうな人を思い浮かべることができるのは不思議だ。
そんな「考える人」のように、私が必死に物事を考えたのは、高3の時、受験に使わないからと全く勉強しなかった化学の定期テストが冗談抜きで一問もわからなかった時くらいだろうか。
私は顎ではなく頭を、手の甲ではなく拳で、必死に叩いていた。
人は絶望した時、どうにかしろと言わんばかりに拳を頭で叩くらしい(そのテストの結果は6点であったが、先生が優しかったので今こうしてネタにすることができている)。
拳で頭をたたかずとも、いつからか物事をよく考えるようになった。
自分で考え過ぎだと思うことも頻繁にあるが、思考が止められない。
たまに考えすぎて呼吸を忘れることもあるし、
脳みそが熱暴走して気分が悪くなることもある。
思考がある一定のラインを超えたら、目には見えない聖なる矢がどこかから飛んできて脳天を貫き、考えることをやめさせてくれればいいな、とか真面目に考えるほどには考えすぎてしまう。
考える時間や量が限界値を超えると何かで発散しなければ居ても立っても居られなくなる。
発散というよりも、考えることによって頭の中に生まれたあれやこれやを放出する、何かに変換する作業と表現したほうがいいかもしれない。もしかしたら芸術家の人たちはそうして作品を生み出したりするのかもしれない。
絵の描き方も気の彫り方もわからない私が頼るのは、言葉だ。言葉があってよかったと、しみじみ思う。
何をおかしなことをと思われるかもしれないが、私は何度も言葉に救われてきた。
夜、布団に入ってからその日のことや次の日のことを悶々と考える。
するとだんだん止まらなくなり、いつの間にか自分の将来のことや、 「人生で大事なことは、、、」
みたいなことを真剣に考えて眠れなくなってしまうことがある。
思考が爆発して頭の中の感情や理論が体の穴という穴から漏れ出そうな状態になる。
そんな時は溜まったものをノートに一気に書き殴る。
書けば書くほど頭がどんどん軽くなる。
テトリスでブロックが無秩序にガンガン積みあがってゲームオーバーになりそうなところから、一旦ブロックを全て宙に浮かして綺麗に均して一気に消すことができたような感覚(伝われ)。
頭の中でぐちゃぐちゃになっていたものが収まるべきところに収まり、ぐっすり眠ることができる。
あー、言葉があってよかった。
これからその作業を、このnoteでもやってみようかなということで今これを書いている。
日々悶々と考えていることを、言葉にして、他の人に見てもらおうじゃないか。
自分で考えて整理して理解して納得して、
全て自分の中で完結していたことを他の人はどう思うのか、なんとも思わないのか。
反応が来れば嬉しいけど、誰かに向けてではなく、あくまで自分のために書いてみようと思っている。
ひとつよしなにお付き合いくださいませ。
そろそろ終えようというところで、
ふとロダンの「考える人」をググったら、あの像は実は「地獄の門」という作品の一部で、「考える人」ではなく地獄の門をくぐる人を「見ている人」らしい。
考えてそうに見える人も傍観者だったりするもんだよね。
少しは、ぼーっとしてみようかな。