安穏

どんな時に心の安穏を感じますか?

昨年はクラウドファンディングでの支援を色々としていたのだけれど、その中の一つにサンガ新社の出版を支援するというものがあった。仏教関連ということで、自分の勉強にもなるだろうと思ったのと、今の時代に必要かもと思ったのがキッカケだった。そのリターンとして、先月『サンユッタニカーヤ 女神との対話 第一巻』が届いて、今般読了した。

本の内容は、女神と仏陀の質疑のような形で進んでおり、内容は仏教の基本理念や教訓が仄めかされている内容となっている。それを著者が独自の見解も含めて解釈しているという流れで、計31個の対話が掲載されている。女神という設定も面白いし、こういう経典が残されているという事実も興味深いものである。

仏教は、一切皆苦、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静のキーワードに集約される。超簡単に要約すると、人生はそもそも苦で、全てが関係性の中で移ろいゆくものだから、実体や観念への執着から生じる煩悩を捨て、心の安穏を保ちましょうというのが基本理念になっている。仏教が生まれた時代には、既に輪廻転生の考え方が一般的であったため、悟りを開くことで、輪廻から解脱できるということが目標としても説かれている。

仏教は事実を事実として、ありのまま観察することが重要とされている。ただ、輪廻転生自体は事実を確認する術がないため、ここは矛盾でもあるだろう。本著でもそのことは触れられた上で、どのように解釈すべきかも示されていた。思想や宗教が普及するには、物語性が必要であるため、輪廻転生や解脱を目指すというストーリーは一種の必要悪となっているのかもしれない。

仏教的な考え方で難しいところは、そもそも人間が生物として生まれ持っている生存本能や思考回路から抜け出すところを目標にしていることだ。だから、普通に生きていると仏教的な考えには至らないだろうし、余程ショッキングな体験をしない限りは理解も難しいだろう。また、そのような普通ではない考え方を理解できるだけの基礎的な思考能力が求められるため、地頭の良さも求められるかもしれない。そう考えると、環境的、遺伝的要因にある程度恵まれて、かつ相応の理不尽を人生で経験して、そこから修行に至るという不自然な流れでなければ仏教的な考えを習得できないような気がする。実際に仏陀も若い頃は恵まれた生活をしていたこともある。

極端な話、もし生まれてくる子供全てが仮に仏教徒として正しく育てられたとしたら、そもそも煩悩や欲をコントロールする手段を身に着けていくことになるから、性欲も制御され生殖活動自体が行われなくなってしまうかもしれない。究極的な心の安穏は、遺伝子的な連鎖を断つという意味でも解脱と言えるのかもしれない。ただ、欲望も何もない人間だけが生きる世界って、本当に安穏だろうか。想像すると恐怖でしかないのだが、それは私自身が固定観念にとらわれているためだろうか。

仏教の思想は、流行りのアンガーマネジメントやマインドフルネスなど、自己統御をする手段としては非常に優れているように思う。私自身、別に仏教徒ではないけれど、知覚や雑念の流れを認識して、怒りなどの感情を制御しようとすることはある。ただ、これは歳を取って経験が増えてきたからかもしれない。経験が増えたことによって、執着から解放されたのか、単に知覚や脳の働きが鈍麻しているのかは、若い頃と比較できないので分からない部分もある。これも諸行無常のなせる業である。

喜怒哀楽と心の安穏は普通の考え方だとトレードオフになるけれど、トレードオフを解決することが世の中の課題であったりもする。そもそも解が無い問いになっているかもしれないけれど、その問いを発して、考え始めてみることに意味があるかもしれない。そんな哲学的なことを思っている瞬間こそが心の安穏を感じる時かもしれない。少なくとも、思考や妄想と、心の安穏は両立するのではないか。そんなことを考えつつ土曜の夜は更けていく。


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