見出し画像

読書サロンにて、矢部嵩『〔少女庭国〕』を読む (冒頭部を抜粋)

「ハヤカワ百合SFフェア」
最大の問題作、『〔少女庭国〕』の衝撃


ティーヌ セクシュアルマイノリティのキャラクターが登場する小説をテーマにした読書会、「読書サロン」主催のティーヌと申します。今回は、「ますく堂なまけもの叢書」さんとのコラボ企画ということで、矢部嵩『〔少女庭国〕』をテーマに語り合っていきたいと思います。
最初に益岡さんから、今回の経緯についてお話しして頂きたいと思います。
益岡 「ますく堂なまけもの叢書」の発行人をしております、益岡と申します。西池袋にある「古書ますく堂」という古本屋さんで、読書会や、テレビドラマや映画、美術展について語り合う座談会を開催し、その記録を同人誌にして刊行するという活動をしております。
今回の企画の前段として、昨年刊行の弊誌第六弾『平成の終わりに百合を読む 百合SFは吉屋信子の夢を見るか?』という一冊があります。これはちょうど一年前、この読書サロンで開催された吉屋信子『屋根裏の二處女』(国書刊行会)読書会と、創刊以来の増刷で話題になった「SFマガジン 百合特集」読書会のレポートをメインとした同人誌です。
SF界では昨今、「百合ブーム」が巻き起こっていますが、その火付け役となったのが、この「SFマガジン」ということになると思います。これ以降、早川書房は「百合」に力を入れていまして、昨年の六月には「ハヤカワ文庫百合SFフェア」が開催されました。
今回の課題作『〔少女庭国〕』(ハヤカワ文庫JA)はその「百合SFフェア」を契機に復刊された一冊です。僕は、先ほど紹介した「平成の終わりに百合を読む」の中で、フェア対象書目をすべて読んでレビューするという原稿を書いたのですが、その中でも『〔少女庭国〕』は最大の問題作でした。その原稿の小見出しにも「ちょっと僕には、どうしたらいいかわからない」と書いてしまうくらい、整理がつかなかった。
一同 (笑)
益岡 該当部分を抜粋して紹介しますと、
独り寝かされた石造りの部屋の中で少女が目覚めると、片側しか開かない扉に「卒業試験」の課題が貼られている。
「ドアの開けられた部屋の数をnとし死んだ卒業生の人数をmとする時、nーm=1とせよ」
これを解く最も効率的な方法が、「扉を開けて隣の少女と殺し合い、どちらかが生き残ること」であるという点は小説のわりあい早い段階で明かされる。しかし、その方法ばかりにならないのが面白いところで、ときには大変巨大な文明が築かれたり、宇宙規模の新世界が成立したりする。こういう展開は実に面白い。面白いのだが……
発展するにしても、破滅するにしても、その資源となるのは、少女の死体しかないというのが僕にとってはとても後味が悪い。その後味の悪さも含めて、ドライに受け止めることで見えてくる文学的な実験や地平があることは頭ではわかる。「百合SFにおいて女性を描く」という観点を鑑みれば、この作品ほど意識的に、高い志を持って、その問題に取り組んでいる作品はないともいえる。
だが、この方法は、このやり方で得る多くの可能性は、いったい、何を示し得ているのだろうか。そこで得られた結論は、どうしても少女を糧にしなければ思考しえなかったものなのだろうか。この「少女消費」をどう位置付けたらよいのか……「小説にやってはいけないことなんてない」とは思いつつも、どうしても考え込んでしまう。
この「どうしたらいいかわからない」という思いを、みんなになんとかしてもらおうと思いまして、今年の「読書サロン」の、十一冊の課題本の中にねじ込ませてもらいました(笑)
さらに今回、「文学フリマ」というイベントに、合同ブースで出展しようというお話になりまして、それなら何かコラボ商品をつくりたいということになり、この読書会の模様を「ますく堂なまけもの叢書 特別編」としてまとめさせていただく運びとなりました(「読書サロン」、「なまけもの叢書」と両活動参加者が多数寄稿している「LGBTQAアンソロジー Over the Rainbow」で合同ブースをつくる予定だったが、新型コロナウィルス禍により残念ながらイベント自体が中止された)。どうぞよろしくお願いいたします。
ティーヌ 今日、お越しいただいている田島さんは、矢部嵩ファンということで……
田島 はい。この読書会には初めて参加いたします、田島です。私が矢部嵩を好きになったきっかけが、『〔少女庭国〕』が二〇一四年に単行本として刊行されたときでした。今回、文庫化によってこの作品があらためて注目されて、読書会が開かれるということで、どんな風にみなさんに読まれているのかを知りたくて参加しました。
ただ、私はBLとか百合とかに詳しくないので、お話についていけないかもしれない……
ティーヌ もう、なんでも聞いて下さい!(笑)
トット 逆に、この作品について教えて欲しいですよね。どういうところがきっかけで好きになったんですか?
田島 この小説に限らず、元々、女性同士の絆を描いた作品については興味があったんです。この作品は少女がたくさん出てきますけど、少女を母性的に描いていない……女性を描くときのステロタイプに陥っていない、バイアスがかかっていないというところに惚れこみました。
今回、この作品に光があたったのは「百合SF」という文脈からですけれど、私自身は百合もSFも詳しくないのでご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いします。
益岡 いえいえ。矢部嵩ファンの方にいらしていただいて本当に助かりました。むしろ、我々が矢部嵩さんを詳しくないので、頼りにしています(笑)
ティーヌ 益岡さんがご説明下さったとおり、この作品を読むきっかけになったのは、去年読んだ「SFマガジン 百合特集」です。この特集について、正直納得がいかなかった(笑)読書会のレポートを読んでもらえればわかるけれど、はっきりいってボロクソに言いました。ボロクソには言ったけれども、果たして自分の読み方がそれで良かったのか、という思いはそれ以来、ずっと持っていました。今回の作品は益岡さんの推薦ですが、そうした思いを持ち続けながら「百合SF」を読んで行くことが、ボロクソに言った者の責任の取り方だと感じて、課題作に選びました。
前回、百合に関する読書会を経て私が感じたのは、百合ファンやBLファンが百合作品、BL作品を消費するときの感覚は、「猫動画」を消費する感覚に近いのではないかということです。
男女の恋愛ものを消費するとき、肉体関係も含めた恋愛への憧れや執着を前提とするという考えがあると思うんです。「性愛」のまなざしを持つことがあたりまえというか、美しい男女が出ていれば、「こういうひととつきあいたい」という欲望を持つものだと、そういう感覚がないと楽しめないというような前提があるような気がする。
私はレズビアンなので、異性愛のドラマを見せられてもはっきりいってぴんと来ないところがある。だから、百合やBLのような「同性愛のドラマ」を好む異性愛者が多数存在するということがいまいち、よくわからなかった。もちろん、色々なタイプの人がいて、自分を、自分とは違う性を持つキャラに置き換えて疑似恋愛をする人もいると思うんですが、どうやら、最近、そういう人たちは少数派になりつつあるらしい。百合やBLのファンは、その物語のカップルの誰かになりたいのではなく、壁になりたいのだ、と。自分自身は透明な存在として美しい二人を見守りたいのだという。
この感覚は、恋愛ドラマを消費したいという欲望というよりは、「猫動画」を楽しみたいという感覚に近いんじゃないか。自分を重ねて主人公に共感したり、物語を楽しみたいというよりは、ただただかわいいもの、好きなものを観ていたい、そういう感覚。それって「猫動画」と同じじゃない?というのが、前回、「百合」について考えたときの私の結論でした。
『〔少女庭国〕』を読んで、そういう思いが強くなりましたね。
私、庭が好きなんですが、庭造りが趣味の人の楽しみ方のひとつとして、自分が丹精込めて造り上げた庭に友達を呼んで、その友達がどんな風にその庭で過ごすのか、それを眺めて楽しむ、というものがあるんですが、この小説はまさにそういう楽しみ方をする作品だな、と感じました。そして、それは「猫動画」の楽しみ方にも通じるところがあると思う。
そう整理すると、百合SFの楽しみ方、消費のされ方というのは──これは、結構伝統的な遊びだぞ、と。
益岡 ……そうなの……
トット ちゃんと読んでますね!
ティーヌ (笑)
トット いや、僕はちょっと受け止めきれなかったから(笑)
益岡 僕は第一声から、めちゃくちゃ怒られると思ってた。「また、こんなもの勧めて」と(笑)
いや、くだんのレポートを読んでいない方はわからないと思いますけど、前回の「百合SF」読書会では、出だしからもうけちょんけちょんに貶してたんですよ。
ティーヌ 私だって一年経てば少しくらい大人になりますよ(笑)
私は女の子が好きだから、ある女の子を「飼いたい」と思ったことがあるのね。アクリルケースに入れて置いておきたいと思ったことがあるの。その気持ちはわかるから、この作品にそういう魅力があるということはわかった。
そしてね、飼われている子には私のことは気にして欲しくないんだよね。私が出かけても、部屋に居ても、全然気にせず、マンガ読んだりしていて欲しい。私がいてもいなくても気にしないんだろうな、と思いつつも、ただ、そこに存在していて欲しいという願望がある。
この小説の「不条理文学」としての構造はそれほど珍しい物じゃない。むしろ伝統的な方法論に基づくものだと思う。
だからね、みんな、これはわかるはずだと思った。これをやりたい気持ちはみんな持っているんじゃないか。ただまあ、どれくらい残酷にするかということは人によると思うけれど、こういうシチュエーションを好む気持ちは誰もが持っていると思う。金とか権力があれば、みんなこれをやりたいと思うというような……
益岡 ああ、乱歩で言えば、『パノラマ島綺譚』みたいなことだ。
ティーヌ そうそうそう。私の好きな人たちだけを私の庭に集めて、「何するのかな」と眺める──そういう欲望。
美夜日 虫籠だよね。動物動画というよりは、虫籠を観察するようなイメージ。
ティーヌ ここまで残酷にするべきか、とか。こんな衛生状態で病気が発生しないのか、とか。色々と気になるところはあるけれど、ベースになっている思想は、誰もが持ち得る欲望を刺激するものだと思う。
細部は色々と気になるし、とにかくこの設定における「可能性」というものが多様だというのもあるんだけど……爆弾持ってる子がいたりね……妊娠してる子とか、いたんだっけ?
美夜日 ありますね。一四九頁の〔浮島茉莉子〕。
「十五歳の母!?」
世界は救われたが、数億年で滅んだ。
この二行だけ。
まっつん こういう、超掌編みたいなの、ちょいちょいありますよね。
益岡 そう。試みとしてはすごく面白い箇所がちょいちょいある。
田島 ちなみに、単行本では、その箇所はありません。多分、単行本版を刊行後、「あるべき可能性」に気付いて改稿したものと思われます。
トット 全体の調子は保ったまま、物語を発展させないように挿入したわけですね。
美夜日 家族が出来ちゃうとね。しかも「産めよ、増やせよ」という物語になっちゃうと。
トット 壮大な話を別に一本書かないといけなくなっちゃうから(笑)
ティーヌ ただの無人島ものと変わらなくなっちゃうもんね(笑)
益岡 矢部嵩さんは角川書店の「ホラー小説大賞」出身作家ですよね。
田島 はい。『〔少女庭国〕』の単行本版が刊行された際のインタビュー(「SFマガジン」二〇一四年四月号『〔少女庭国〕』刊行記念矢部嵩インタビュウ/インタビュアー&構成・佐々木敦)によると、ホラーっぽいものなら書けるんじゃないかと早川の編集者に声を掛けられた、と。高見広春『バトルロワイアル』(幻冬舎文庫)であるとか、貴志祐介『悪の教典』(文春文庫)、米澤穂信『インシテミル』(文春文庫)、映画の『キューブ』(一九九七年)……そういったシチュエーションスリラーものの打診があった。矢部さんは最初、それっぽいものを書こうとしたんですが、なかなか書けなかった。そのときの気持ちを語った部分を引用します。
あの妙にギスギスした雰囲気が嫌なのだと思いました。閉じ込められてすぐに殺し合いにつながることが嫌だった。脱出できるのは一人ですと言われて「はい、そうですか」と切った貼ったを展開するのはおかしい、と。読むうえで楽しいっていうのはわかるんですが。
矢部さんは、そういったシチュエーションものを依頼されたけれども、それ特有の人間の心理的な争いであるとか、プレッシャーがある中ですぐにヒートアップする展開が嫌いで、この形になったみたいなんですね。
最初から「少女」について書こうと思ったわけではなく、こういうシチュエーションものを書く上で、自分が納得できる形に落とし込む上での可能性を色々と検討した結果、最終的に「少女」に落ち着いたということのようです。
美夜日 デスゲーム小説の少年の先行作はウィリアム・ゴールディングの『蠅の王』がありますね。
男を入れちゃうともっと陰惨な、というか、単純化されちゃうということなんですかね。
田島 もしもこれが全部男性の話だったとしたら、男だからこんな暴力的な話になったのであって、女だったら、もっと穏やかな内容になったんじゃないかと想像する人もいるかもしれないけれど、それは違う、と。たとえこの世界でいちばん弱い立場に置かれている少女であっても、人間は普遍的に醜いことや残酷な行為に陥ってしまう存在なんだという、そういうことを書きたかったんじゃないかと思います。
だから、この「少女」というのは「棒人間」だと思うんです。
トット うん、うん。
田島 「棒人間」を「少年」にしたら、「男だから残虐になっちゃうんだ」と突っ込まれてしまうかもしれない。それを排除するために、一番弱くて一番可憐と思われている存在を「棒人間」の表象としてつかった、と。
まっつん 確かに記号的ですよね、この小説は全て。
ティーヌ 名前も名前っぽくないものが選ばれているように思う。
まっつん 私は、今日、声を大にして言いたいのは、「これは、百合なんですか?」ということ。
一同 (笑)
まっつん 私の中では、「これは百合ではない」という結論です。
リン 私もそれは思いました。
銀河 私は今、田島さんの話を聞いていて、「バトルロワイヤルとして陰惨に見えすぎないために少女というアイコンを採用したんだな」ということを感じたんですね。その上で、ここで描かれている「少女」との造形を見てみると、どこか八〇年代くらいの少女小説を彷彿とさせるデザインを思わせるところがあるんじゃないか、と。そうした作品群は、現在の百合の元祖といわれるような作品群でもある……そうした歴史を踏まえれば、これも百合と呼べるのかな……と。大いに迷いはありますけど(笑)
ティーヌ さきほど「棒人間」という表現がありましたけど、そもそもこの少女たちは人間なのかな、と。感情が描かれているシーンはほとんどないと思うんです。ただ、最後のエピソードには少し感情的なものが描かれている感じはしましたけど。
益岡 僕はちょいちょい、感情描写と思われる箇所は出て来たと思っていて。途中、結構立派な文明が出来て、でも、そのあり方に納得できない少女が異分子として周囲とぶつかりあうエピソードが出て来るじゃない。なんか、決闘みたいなことをしたりして。
ティーヌ 「ウテナ」みたいなね(笑)
益岡 そう。あと、なんか、女王様みたいなのに傅いている宮廷の話とか、比較的長い歴史を持つエピソードは、細切れで挿入されていくよね。サーガになっていく。僕はそうした長い物語の中では、少女たちの強い感情の行き交いみたいなものは描かれていると感じた。だから、そうした営みを楽しむことの出来る小説だとも思うし、そこに「百合」を感じることは不自然ではないと思う。
でも、その一方で、このゲームというか、ルールの上で巨大な文明が出来るということは、それはそのまま「少女消費」なわけだよね。食料も、生活のための資源も、壁と扉以外では、隣で寝ている女の子の肉体に頼るしかない。
ティーヌさんの「箱庭的読解」は非常に納得できるもので、そういう楽しみ方ができる可能性については肯定的に捉えたいんだけど……もちろん、巨視的に観れば、「少女たちの交歓」みたいなものを楽しんだり、誰がどんな風に動いているかを覗き見するような感覚で遊んでいくという作法はわかる。でも、ひとたびズームインして、ミクロの世界を追求していくと、彼女たちが飲んでいるものとか食べているものとか身に着けているものってどういうものなの? それは隣で寝ている少女からつくったものなんじゃないの? それってもっと、気持ち悪かったり、残虐だったり、不潔だったりするものなんじゃないの? と色々な疑念が湧いてきてしまう。この文明自体の恐ろしさを思うと、そこで暮らしている彼女たちの感情変化なんて楽しんでいる場合じゃないんじゃないか。この恐ろしさと向き合わなきゃいけないんじゃないか。でも、それをいったら僕らの文明だって恐ろしいもので出来ているんじゃない? この〔少女庭国〕を恐ろしいとか、残虐だとか思うこと自体が不遜なことなんじゃ……とか考えて行ってしまって……最終的には、やっぱり「ああ、どうしたらいいんだろう」というところに行きついてしまった(笑)
ティーヌ 私はむしろ、そういう残酷だったり、不潔だったりする「世界の仕組み」を描いてくれたことには「ありがとう」と言いたい気持ちがある。「猫動画」の話をしたけれど、あれは綺麗なところ、かわいいところだけを切り取っているから楽しいんであって、二十四時間、猫を映し続けているものを好む人はあまりいないと思う。この小説も、少女たちの瞬間瞬間を切り取って、もっと心地の良い箱庭にすることは出来た。でも、この作者はそうはせず、汚いところも描いている。それはこの作品の良心だと思う。
益岡 この作者は逃げなかった、ということだよね。それはもちろん、積極的に評価したいんだけど……あとは、この「少女消費」の景色が、ただ放り出されている様をどう受け止めていくのか……雑駁な言い方をすれば、「好みの問題」ということになってしまうんだろうけれど……僕はこの試みを「嫌い」とも言えなかったし、「好き」とも言えなかった。この剥き出しになった「穢れ」のようなものを……これを「穢れ」と受け止めてしまうこと自体に、すでにバイアスがかかっているわけだけれど……ただそのまま受け止めるということさえ、うまく出来そうになかったから……他の人がどう昇華するのかな、ということが知りたくて、課題作に推してみました(笑)
ティーヌ 私も、益岡さんの気持ちはわかる。「猫動画」というたとえで言えば、これは「猫を虐めている動画」だと思うから、「まあ、観たくはないよね」という感想を抱くのは納得できる。
銀河 私はこの作品に円城塔さんを思い出したんですけど、この作品は人間を記号化した思考実験で、そうした思考実験をどう展開していくかというのはSFの普遍的なあり方のひとつだと思います。
私はこれを「冷たい方程式」(トム・ゴドウィン作、同名書所収、ハヤカワ文庫SF)ものの一形態だと思ったんですね。あるシチュエーションを与えられた人類がどういうリアクションをして事態に対処していくかということをSF的な思考実験として描いた短篇小説で、同じシチュエーションで原典では描かれなかった可能性を追求していった二次創作的な作品が大量に生まれて行って有名になった作品なのですが、『〔少女庭国〕』もそういうことをしている作品なのだろう、と。だから、それ自体は否定するものではない。
ただ、この作品の構造からすると、読者は、少なくともここで描かれる少女たちの視点に立たされるわけではない。この世界を俯瞰している誰かの視点に立たされているわけです。この世界を作り出したもの、特権的にこの世界を把握する立場の者と同化させられたときにこの作品をどう捉えたらいいのか……
私は、最近、こういう倫理的にきわどい領域に踏み込んだ作品について考えることが多いんですが……「読まない」というのが倫理的に正しいのではないかと。「私は読まない」と決断することが誠実な態度なのではないか(笑)
益岡 これ、読んでみて、嫌だった?
銀河 嫌というか……これを消費すること自体を作者は問いかけようとしていると思うんです。
トット うん、うん。
銀河 そうした問い掛けをしてくるような作品に触れる機会が最近多くて、ずっとそれをどうやって受け止めていけばいいんだろうと考えてきたときに……受け取り手として、その問い掛けに応えるならば、「私は読まない」という答えが自分の倫理観に沿った態度かな、と。「お金は出してもいいけど、読まない」という。そこしかないのかな、と。
この作品は、いわばバーチャルな世界における残酷なシチュエーションが描かれている……これは、小説という形ですけど、もっと肉体に、直接的に響くような表現形式というか、VRとか、そういうメディアでそうした思考実験が表現されるようになったときに、倫理観との関連性はどうなっていくんだろう。
こうした実験小説に触れるとそういうことを悩んでしまいます。
ティーヌ ただ、この作品は、「これをどう解釈しますか」というような積極的な投げかけはされていないよね。
益岡 そうだね。そういう強い要請はしてこないね。
銀河 だからこそ対応が難しいという面があると思うんです。こういう作品が世に問われるということ自体に投げかけがある。でも、そのスタンスは曖昧。それを受け止めるときに私たちはどう反応すればいいんだろう……「うーん、読まない」と(笑)
不買運動とかそういうことじゃなくて、個人的な、倫理的な判断として「読まない」という決断をすることもまた、ひとつの「読み」なんじゃないかと。
この作品は非常にうまいじゃないですか。うまい作品はどうしても楽しんでしまう。楽しかったという気持ちは、私は否定できない。そうなったうえで作品から、「あなたはこの残酷なものを楽しんでいるんでしょ? そのうえでどう解釈しますか?」という問い掛けが為されたように受け取ってしまうと、「封印する」という選択肢しかない(笑)
益岡 楽しいけど、自分に、これは「読んじゃダメ」と言うしかない(笑)
銀河 作品に対して誠実に向き合おうとすると、私はそういう結論になる。こうした作品群に対しては、そういう回答に行きつかざるを得ない。

※続きが気になる方は、是非、本誌をご用命ください。

テキレボEX2: https://text-revolutions.com/staffdaikou/products/detail/2873

BOOTH: https://ichizan1.booth.pm/items/2178231

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?