13-不完全こそ完璧


人間は何のために生まれてきているのか? これは根源的な質問になります。あなたはどう思いますか?

よく耳にするのが、人間は「修行をするために生まれてきている」と多くの方がいわれます。確かにそれも一つです。修行という体験を選んでいる方もいます。あるいは楽しむという体験を選んでいる方もいます。中には、苦労するという体験を選んでいる方もいます。

 

つまり、いろんな体験をするために、人間として生まれてきているようです。体験を通じて様々な感情を味わっている。そのために生まれてきていると言ってもいいかもしれません。

実は人間の魂は完璧です。神そのものです。皆さんの魂はお釈迦様や観音様のようなものです。完璧ですから本来修行は必要ありません。しかし、完璧だと色々な体験ができないのです。

 

例えば、完璧な存在であるお釈迦様と観音様が、天国でお互い向き合っているとします。お二人はどうしているでしょう? 何をしているでしょうか? ちょっと想像してみてください。

お互いほほえみあって、「ごきげんよう」と言って、お茶を飲んで、穏やかな風が吹いて・・・それで終わり。

こんな感じでしょうね。そう思いませんか?

そんな状態が、百年も千年も一万年も続いたら、あなただったらどう思いますか? どんなことを考えるでしょう?

飽きそうですよね。何か体験をしたい、刺激が欲しいと思いそうではありませんか? そうなんです。そう思って、私たちの魂は人間界に降りてきたのです。全ての魂が、修行するために降りて来ているわけではありません。さまざまな体験をするために人間になったのです。


その体験の中に、修行というものを選んでいる人もいます。

楽しむということを選んでいる人もいます。

苦労するということを選んでいる人もいます。

何もしないということを選んでいる人もいます。

それはそれぞれが選んだ体験であって、全て同じ価値があります。どれが素晴らしいというわけではないのです。


では、人間になっても、お釈迦様と観音様のままだったらどうでしょう。人間になった意味がないですよね。

そこに、さまざまな体験をするためのトラブルが必要になります。そして、トラブルを引き起こしてくれるトラブルメーカーが必要になります。

つまり、人間を体験するという事は、トラブルメーカーの体験をしに来ていると言ってもいいのかもしれません。

トラブルメーカーという言葉に語弊があるならば、不完全な人間を体験しに来ていると言ってもいいでしょう。

ですから、人間は不完全で当たり前であり、不完全でなければ人間になった意味がないのです。


お釈迦様や観音様は完璧ですから「失恋したらつらい」「いじめられたら悔しい」「殴られたら痛い」という事は百も承知なのです。だって完璧ですからね。

ではお釈迦様や観音様が、失恋したり、いじめられたり、殴られたりするでしょうか。

観音様とお釈迦様が喧嘩したりするでしょうか。しなさそうですよね。


そうなのです。全てを知っているけれども、体験ができないのです。その体験をするために、人間になったのです。ですから、人間は不完全なのです。

人間にとって不完全であることが完璧なのです。不完全である自分を、責める必要など全くないのです。


「じゃ不完全でいいなら、いっぱい嘘をついていいの?」と考える人もいるでしょう。

そうではありません。不完全な自分を認めたときに、嘘は必要なくなるのです。

例えば、「私は四〇点程度の人間だ。しかし一〇〇点だと思ってもらわなければ、世の中ではやっていけない。」とそんな感覚を持っている方も沢山います。


そうすると、六〇点分の嘘や見栄が必要になってきます。さらに四〇点の自分を見透かされたらどうしよう、否定されたらどうしようと、今度は六〇点分、緊張したり不安になったりしてしまいます。この差の六〇点があなたにとっての重石になってしまうんです。


しかし、あなたが基準とした 一〇〇点も先ほどの「○」「×」と同じように、あなたが勝手に作り出した基準です。人によって違います。そして、足りない六〇点に苦しんで行くことになります。

では、「私は四〇点です!」と認めてしまったらどうでしょう。とても楽になりそうではありませんか? 嘘や見栄や緊張は必要なくなってしまいます。四〇点の私は、四〇点満点を目指せば良いのです。

だって、四〇点という体験をするために生まれてきたのですからね。四〇点ならば取れるでしょう。


ほとんどの人がその程度のものです。自信がある人と、自信がない人の違いはどこにあるかというと、不完全な自分、つまり四〇点の自分を認めているかどうかだと思います。

おそらく、自信がない人は、足りない六〇点に押しつぶされて、四〇点の自分も発揮できなくなっているのではないでしょうか。足りない六〇点にばかり目がいって、「私は六〇点も足りない」と言っているようです。四〇点の自分など、取るに足らないものだと思い込んでいるのではないでしょうか。


反面、自信がある人は、足りない六〇点には気を留めず、ただただ四〇点の自分を認めているだけのことでしょう。四〇点である自分を認めると、重石の六〇点がなくなりますから、その四〇点がフルに活用できそうですよね。


六〇点に押しつぶされることなく、スムーズに成長ができるようです。

もう一度言います、全てを認めるというのは、不完全な私を認めるということです。私たちは、不完全さを体験しにきたわけですから、不完全で当たり前なのです。その不完全さを、そのまま認めることです。

不完全な自分を否定することなど全くありません。その不完全さこそが、人として完璧なのです。

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