「寛解」という希望が潰えた日。③

脳への転移の事実を伝えられた我々は、「このあと、内科の先生の診察を受けてください。」と肝胆膵外科の主治医に言われ、1-2時間程度の待ち時間があった。

ようやく手が差し掛かった崖の頂上から手を振り落とされたような気分だった我々は、病院のすぐ目の前にある広い公園で診察を待った。

5月初旬ということもあり、新緑が綺麗で、湿気がなくカラッとした、新緑の綺麗な最高の季節だった。

私はこの季節が1年の中で一番好きだ。

そんな最高の季節の中、電話で診察に呼び出されるのを待っていたが、酷く落ち込む私の姿を見て妻は、「きっと大丈夫だよ。」だっただろうか、それに近しい言葉と笑顔で私を励ました。

自分が1番辛いはずなのに。
妻は、自分のことより他人のことを真っ先に考えられる人だった。

そして、こうも言った。

「お義父さんとお義母さんに申し訳ないな。。。」

今でもこの言葉を鮮明に覚えている。

結婚式の1ヶ月前に病気が見つかり、結婚後も今日までの約1年間、ずっと闘病生活を続けている。まさに、私達の結婚生活は、''闘病生活''だった。

結婚式後、私もすぐに仕事を休職させてもらい、妻に24時間寄り添ってきた。

自分の病気のせいで、私に仕事を休ませることになってしまったり、妻として本来果たすべき役割が果たせないことに対して、私の両親に申し訳ないと思っていたのだと思う。

しばらくすると、携帯に着信が入り、内科の診察室に向かった。

内科の先生は、妻の脳の腫瘍は、3cm程度と少し大きいが、他に転移が見られないため、治療には、「ガンマナイフ」という放射線治療が適応で、最も適した治療であることを我々に説明した。

続けて、「この病院ではガンマナイフの設備がないため、都内の病院を紹介するので、これからすぐにその病院に行って入院し、治療して来てください。」と言った。

あまりに突然のことで動揺したが、私は、病院側の「一刻も早く」という迅速な対応に感謝した。

しかし、妻はまた「入院」が必要ということを知り、落ち込んでいるように見えた。

普段、弱音を吐かない妻だが、小さい頃から「病院」や「薬」が大の苦手。

また、2度の大手術をやっと終えて、ようやく2度に渡る2週間の入院を終えたばかりだというのに、また入院になると知り、さすがに落ち込んでいた。

しかも、コロナ渦のため、私も今までのように毎日病院にお見舞いに行って、面会時間ギリギリまで傍にいてあげることもできない。

落ち込むのも当然である。

そして、妻と私は、すぐに自宅に戻り、入院の準備をして、五反田駅近くにある病院へと車で向かった。

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