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独居の独り言(八月十五日を想う)

1945年8月15日と生きている今、現在
 自分は数え6歳であった。
とにかく昭和20年3月10日の米空軍の10000メートル上空から東京大空襲があり日本は苦も無く攻撃されていたと言ってよい。
6歳の小児と言え空襲のサイレンと敵機来襲のラジオの警報・サイレンが鳴り、急遽電球に黒いカバーをして、母の側に寄り添い、妹は抱きしめられながらじっと耐える。しかし、B29の空襲が実際に侵入し、爆弾(焼夷弾)を投下し始めると警防団員の避難呼びかけに応じて、大人たちは外に出て、襲撃の様相を眺めるのである、瞬く間に大人たちは、蔵前、両国、亀戸はもう火が燃え立っていて、まもなくこちら(向島、浅草)に焼夷弾が落とされるだろうと叫び避難場所へ向かうよう叫びかけは知っているのである、期せずして近所、周辺の人達は大八車やリヤカーに荷物を積んで走り回る人、リュック背負って、あるいは、あかちゃんを背負い子供の手を繋ぎ、避難場所へ走っている人、避難方向のとまどう人たち実に混乱してどっーとがえしであった。
 大人たちは軒先にに立ち夜空を眺め爆撃機の方向を注視、当地に向かって来ると思われると、避難する方向を話しながら必死に移動するのである。焼夷弾の投下は夜間と言うこともあり民家や工場の上で投下後、爆弾が十数発も落下と同時に分散して屋根に落下し火災を起こさせているのだ。そのことは避難する際に近所の人に抱かれて投下され火災を起こす様相がはっきり分かるのである。その恐怖感は大人たちの騒ぎでよくわかるのだ。隅田川の水神橋での堤防での避難場所でも浅草寺方面を反対の岸から見ていることになり浅草寺の方向はでは火災の火が夜空高く広がり、隅田川の浅草側の堤防を逃げ惑う人々の黒い姿が見えるのであった。とにかく、その避難地で一夜を過ごし、翌朝近所の人達と、家はもう焼けてしまっているだろうと、あきらめた話をしながら、戻ってみると、なんと自分たち周辺の一角だけ奇跡的に焼けることも無く建っていたことを大人はひどく喜んでいたことを思い出す
 我家は、翌日、溝の口の高射砲基地から父が、交通の便は無く、ほとんど徒歩で来たと言っていた。
そして、3月13日には上野発午後10時ころの列車で、祖母の住む山形に向かったのであった。
上野までも、向島から徒歩で上野駅に行ったのであるその間、危険でそこへは行かないようにと警察官に言われたり、戦災で体が不自由になっよれよれの姿でが地下道に寝たり、座り込んでいた人たちなど眺めながら、恐怖感を持ちながら、上野まで行ったことは今でも思い出す。
 
今の平和の時代を八十路を超えて生きているのは、この人生、多様なことが降りかかってきたと思うけれど、実に幸せな生き様だと、つくづく思うのである。
 
昨晩(17日)は、さわやかな、秋近づきつつある雲隠れの月夜の晩であった。空も涼やかな明るさとなり、雲と雲かくれの月はむら雲を澄んだ明るさにして初秋を想わせる風紀が気持ちよく、まさにひとり酒で独居の自由な味わいを楽しんだ・・・贅沢だと思う

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