見出し画像

独居の独り言(神田川の記)

 わがロマンは「南こうせつさんの神田川時代の始まる前に」
しかし、僕の神田川時代は懐かしい、あの青春期を思い出す

 生まれは、向島:スカイツリーの周辺に昭和20年3月10日の米国の大空襲を受けるまで住んでいた。3日後には急遽、溝の口の高射砲大隊から駆けつけてき父の手続きで山形へ疎開した。
父は、東京の下町、両国、亀戸、錦糸町、浅草、向島方面はほとんど全滅と言われて、急遽、行ってくるように言われたらしい。
そして、山形の奥羽山脈地の一角、江戸時代には宿場町、天領と言われた地への疎開であった。そこの小中学校を終了して、集団就職組と上京したのであった。
従ってそれ以来、父母の住む故郷から離れて、70年近い、しかし両親は他界して30年経過したが空き家として誰もいない。自分自身は結婚まで東京在住であった。しかし振り返ってみる転勤などではないが、住居移転は随分としてしまった一人である。

結婚50年後に再び、一人生活となって、今は、粗末な家であるが、24時間好きな時いつでも浴びれる伊豆の温泉付き住宅だ。健康維持には自分にとってもってこいの環境である。
南こうせつさんが歌う十数年前の神田川の身近な時代を思い出す。16、7歳ころの山手線を一巡りしても、高層ビルと言っても8,10階建てぐらいのビルであった。隅田川は次第に汚れが進んで問題化し始めていた、神田川も汚れ始まっていたと思う。それは、山形の山村の小サンショウウオいる清流の地に住んだことからの比較でもあった。神田、秋葉原、お茶の水、飯田橋、市谷、四谷など、あの沿線,神田川周辺は多くの大学があるのは今と変わりはない。高校生と言っても、ポットでの東北の田舎の人間が入れる学校は、経済的なこともあり、夜間高校、や文部省検定試験(大検)を取得すること以外選べる道なく、最初1年有半夜間高校に通った。高校と言っても、ほとんどが経済環境上その選択が普通であった。
夜間高校の同級生は別な意味で、お互いに結束力が在った。クラブ活動もあり「化学クラブ」に入ったのである。
涼しくなった秋頃であった、地学の先生に呼び止められた。日曜日にお茶の水のホームで待ち合わせて、「深大寺」に散策に行こうと誘われた。
3人だという。あの神田川のお茶の水駅であり、地学の先生はもう一人の女性徒を呼んでいた。直感的に感じたのは、わざわざその女生徒を小生に引き合わせようと思っていたらしい。其の生徒は在京人であり両親と暮らしていたのである。しかし、彼女も日昼は某社に勤務していた。成績は優秀であり、何かと小生に話しかけてきた。一人暮らしの自分は、そのような親しく話しかけてくれる、女生徒と限らず男性とも、親しくなれることはうれしく、たのしかったのである、あの時代、深大寺はハイキングコースに組み入れることが多かったのである。地学の先生は深大寺周辺の地質調査などしていたようである。
お茶の水で会って連れていかれたのである。田舎出の僕は深大寺のことなど知る由もないけれど、広い、木々の鬱蒼としたところで、気持いい散策地であった。特にその同行した女性徒とは、小生の田舎のことや、仕事のこと、両親のこと、将来何をしたいかなどをお互い談笑し散策しながら打ち解けていた。帰宅時、やはりお茶の水で別れた。今思うと彼女は自分に好意を持っていたと思う。言えることは、乏しい経済でデートしたりするような時間は無かったし、某大学に夢をもって、学習意欲がほとばしっていた時代であった。
そしてあの時代、神田川沿いにある、古い住宅群を見て、小生は家賃のことは別として、こんなところに住み学校に通えたらなあ・・・と想ったのである。そして、南さんの「神田川」が流行りだした2年ほど前に結婚した。二人で南青山に住むようになっても、また仕事柄、何かとお茶の水駅で降りる機会が多く季節ごとに、ゆっくり周辺を散歩する、夜は神田界隈の居酒屋などへ行き、鎌倉に住むまで家内ともゆっくり散歩を楽しんだ。
お茶の水のおしゃれな洋品店でおしゃれなまだら豹もようの品位あるストールを買って家内へプレゼントした
50年たった今でも3女が大切に利用してくれている。神田川は別な意味で僕の妻への残照となっている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?