見出し画像

独居の独り言(花火大会と孤老の残照)

 

打ち上げ花火と隠棲孤老

 花火大会の日が多い夏もほぼ終わり。
しかし平野部は強烈では全身に陽が差し込む超極暑が続いた夏日が続き今でも、ヒグラシの朝の声は遅くなったけれど、この熱暑日はそれほど変わっていない。 
 
独居人、隠棲したような日々を送る自分にとって、体調を崩したくないので、寂涼に山家に閉じ籠もり日がほとんどであった。今の独居生活は、よく言えば書斎に詰め込んでいる孤老のわび住まい日々である。
 
しかしこうして住んでいても自分ではそれほど育んできたとは思わないけれど、毎日、朝、夕、
 四人の子供たち(長女50歳、一男48歳、次女46歳、三女43歳)から孤老の消息の確認のためLineでの通信がある。これは、妻に先立たれて以来、二年後、元住む家を離れ、100キロほど離れた山家の独居生活をし始めて以来、子供たちの孤老へ日々の気遣共感から習慣化してくれたのである。
孤老の日常の生き様や体調を慮って常に知っておきたいことからであろうと想う
 今では、四人の日々の情報もつぶさにわかるような実に「家族愛?」に満ちたニュースを知ることが出来て妻を含めて、暮らしていた時より、ずっと親愛感、親近感を楽しみ深く、四人の子持ちで良かった・・と心豊かにしてくれるのである。
わが夫婦の子育ての時期には、夫、父親としてたいしたことはしてあげなかったなあ・・と思いで反省するところありだけれど、これもまた妻が母親として、子育てには、型にはめたようなことなく自由にのびのびと育て上げてくれた。また、現在全員健康であり、着実に家庭生活をしているようである。それでも人間何が起こるか分からないけれど、この孤老の独居生活を実に豊かな心に沸きたててくれるのである。
感謝、感謝の日々だ。
これも妻のお陰である・・・と
 
 この想い、特に昨晩は、伊豆に転居して、初めて修善寺温泉「おこうぼうさん」と言う夏祭りがあった。修善寺温泉を起こしたと伝えられる「弘法大師」にちなんだ祭りだそうである。独居老の自分にとって、相当深く花火をじっくりと観たのは鎌倉の子連れで良く早朝の海水浴やゴムボートで遊んでいたころ、鎌倉由比ヶ浜・材木座の海岸花火大会、あるいは遠く16歳ころ高層ビルが無く都立白鴎高校のある旧町名浅草七軒町の物干し台から花火大会を実によく見えて同年代の工場のオーナーの子息・H君や社員たちとわいわい騒ぎたてながら眺めた隅田川花火大会がよく見えたのである。まさに青春時代の花火見学を鮮明に思い出す、
 
自分は集団就職組の一員として上京し親戚に寝泊まりさせてもらえそうないことが解かって、工場の寮に宿泊するようになっていたが、高校の化学のM先生がある日、国立T/K大学理学部のI教授の標本整理、その他雑用をしてもらいたいから高校夜間生を推薦して欲しいということで、夏休みに入る前に大学の研究室のI教授に伺ったのである。恐れ多い教授から両親の住まい、小中学校、出生地、高校での成績表などざっと見て、特別な面接諮問も無く、「いつから来ることができますか?」と言われたのである。夏休みに一か月ほど帰省して東京に戻る9月からと言ったところ、鼻をふんふんと、ニコニコしながら、頷いてくれたのであった。自分はこの先生の下で後に分かった事であったけれど実質公務員あつかいとなっていたようで「教務補助員」と言う辞令が出ていたのである。これは例えが適切ではないかもしれないが青春時代に、ある意味、幸運に恵まれ、一つの山の峯に立ったような心地であった。田舎に夏休み帰省しても中学の同級生に羨ましがられたものである。
このI教授(東京帝国大学、牧野富太郎研究室出身)研究室の一角の時に与えられた時と場はまさに自分の学習意欲を高く抱かせ、以後の人生に強烈に影響を受け、独自に学習して生きる対応力を持続させてもらったのである(高齢の今でも変わらない意欲)。
花火打ち上げのことであるけれど、昨晩は花火大会を独居独酌で楽しみながら、打ち揚げられる空を紅や明るい緑色の花火の揚がる宙空を眺め映写したりしながら思い出をめぐらせ、独居の独り言は、わが過ぎし残照の思い出が多いな・・・と・・・。
他人は人の過去のことなどはあまり関心がないだろう、と思いつつ・・時には独り身の孤独感、時には自由自在の現在を、そして楽天的に独酌を楽しむ、そして、今の自分の在りかたや、想いをいたしてくれる人たちに感謝の念を日々思いながら、30年振りに、花火の打ち上げをじっくり楽しんだのである。

いいなと思ったら応援しよう!