多様性歓迎派ゲーマーがポリコレ批判について思ったこと | 森田一郎の毎日戯文 #76
ドーモ、森田一郎です。
執筆時間あと35分にして「多様性歓迎派ゲーマーがポリコレ批判について思ったこと」について書こうと試みる無謀な男であります。
とりあえず、今回の記事については、ポリコレとゲーム業界のあれこれを網羅的に扱うというよりは、単純に私が「そない悪いもんでもないと思うけどなあ」と素朴に感じたことを書いて参ります。
私はゲイ寄りのバイセクシャルであります。そのためか、若いうちから同性愛や女装などを含む作品に慣れ親しんでいる立場だというのは、前提としてお伝えしておいた方がよいでしょう。
さて、最近で私が最も強く「ポリコレ批判」に違和感を感じたのが、『The Last of Us Part II(以下、TLoU pt.2)』に纏わるアレコレです。
本稿では、『TLoU pt.2』に関する分析やら批評は避けますが、個人的には初代に匹敵する傑作だと思っておりますし、また、批判を受けて然るべき内容だったとも思っております。そのへんの感想はプレイした方に任せるとして、コミュニティのどんな反応が私に引っかかったのか。
それは、「ポリコレでしょ?クソゲーじゃん」という風評の立ち方です。どうも作品の実態とは関係なく、「同性愛者をフィーチャーしている」だとか「有色人種キャラが出る」だとか、そういった事のみで作品の印象を固めてしまう人々、言わば“反ポリコレ派”が多いように見受けられました。
もちろん、作品にしっかり触れた上で「これはポリコレに配慮している」だとか「配慮しない方がいい作品になった」という感想を抱くのは全く自由であります。しかしながら、作品に触れずに特定思想への反意のみで作品を批判する、或いは作品に触れたとしても、反ポリコレ的意思を持ってポリコレ批判のダシにするというのは、良くない筋なんではないかなぁ、と森田一郎は考えます。
かく言う私も、各ジャンル作品における過剰な政治的、ないしはマーケティング的配慮には反対派の人間です。「黒人を出した方がマーケティング上のアピールになるから」といったような理由で作品の意図を歪める行為は、「白人男の方が売れるから」という理由で女性主人公を撥ね付けたとされる『アサシン クリード ヴァルハラ(後に男女主人公でリリース)』と同じくらい有害な例ではないかと、私は思っています。
しかしながら、「今までの王道でない、同性愛者や有色人種などの多彩なキャラクターを出したい」というアイディアについては、私は喜ばしく思っています。一体どこからポリコレにおもねっているのか、どこからが制作者の自由な発想なのかは判断の難しいところですが、例えば『オーバーウォッチ』の多彩なキャラクターなどは、私にとっては非常に面白いもので、コミュニティでも広く受け入れられていたように思います。
まあ、強引にまとめてしまうと、「制作者が一番良いと思うものを、思い通りに作って出せるのが一番」ということでありまして、ポリコレ尊重派からも、反ポリコレ派からも、ある作品を歪めてしまうような圧力がかかるのは嫌だなあということです。
改めて申し上げますが、作品に触れて「これは時流におもねって面白さを損ねている」だとか「付け加えた人物設定が蛇足になっている」という感想を抱くこと、述べることは全くの自由です。皆さんそれぞれの価値観は大事にしていただいた上で、実際に作品に触れられたら素敵だね。それで面白くなかったり、嫌だったりしても仕方ないけど、楽しめたら尚いいよね。というお話でございました。