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感想に関する或る感想#1「“感想/レビュー”と“批評/クリティーク”の区別」 | 森田一郎の毎日戯文 #22

毎日戯文とは

ドーモ、森田一郎です。

本日は「感想に関する或る感想」第1回、「“感想/レビュー”と“批評/クリティーク”の区別」をやっていきます。まあレビューは両方の意味で用いたりしますが。

さて、区別とは申しましても批評、特に文芸批評なんかに関しては色々な考え方がありまして、それはもう立派な学問でありますから、今回のべさせて頂くのは私の個人的な、もしかするとひとりよがりな、そういったモノサシの具合です。

率直に言いますと、私の定義において「感想」は主観、「批評」は主観に対する主観的/客観的主観的批判を経過した主観であります。よくわかんねーな。
まあ難しいことを抜きにして、「ワシこれほんまに正しいこと言うとるんか、他の人はどう思うんやろ」という経過を辿ったものは、批評と呼んで差し支えないと思っています。

例えば、私は食えないものがピータンしかありません。
味の評価が
・ピータン
・うまい
・超うまい
・味皇みたいにビーム出るくらいうまい
の4段階しかない男です。

その私が納豆を食べると
「くさいしねばねばしてうまい」
となります。これが「感想」です。

ここに主観的批判を入れます「くさいのはうまいのに寄与しているか?」そうすると
「くさいのはうまいのに関係ないかもしれないが、ねばねばしてうまい」
となります。ちょっと私の思う「批評」に近づいて来ております。

さて、ここに客観的主観的批判を入れます。これは今私がでっちあげたよくわからない言葉です。
早い話が、人間客観的に物事を見ようとしても主観のうちに入っちゃうよね、でも態度は大事だよね。という事です。たぶん世の中に5兆人くらいいる、私より賢そうな人に丁寧にたずねるときちんと教えてくれます。たぶん。

言い訳は置いといて、そういった態度で批判を入れますと「くさいのが嫌いな人もいるし、ねばねばが嫌いな人もいるだろう、じゃあうまさはどこから来る?」となります。
結果として思考を順繰り順繰りしていくと

「この納豆なる食べ物は臭みがつよく、ねばりもあって好みが分かれそうだ。たとえば子供の頃から慣れ親しんでいない人、特に日本国外の方などは抵抗を覚えるかもしれない。しかし慣れると大豆由来のコク、発酵による旨味成分、そしてタレの味が調和して、ご飯がよく進むとてもよいおかずとなる筆者は感じた。主食無しでそのままでも私は十分食べられる。」

となります。これが私の思う「批評」に最も近いものです。突然賢そうになってすみません。思考が順繰りするとこうなります。

つまり、えーと、まあ、そういうことです。感じてくれ。

さて、まあ感想と批評の差はさておいて、私が最も気をつけているのが「事実誤認」です。
「納豆は腐敗していて体に毒だ!」これは、納豆については一般的に腐敗でなく発酵と呼ばれる過程を経ており、体に毒はまあ食いすぎたら毒なんでしょうが、「『腐敗していて』体に毒」は明らかに事実と異なると言えましょう。

案外世の中このパターンは多いです。私も気をつけててもたまにやらかします。ピータンは*******!
まあピータンちゃんと食ったら食えるんですけどね、たぶん。何も処理せずに殻剥いて口に突っ込まれたのがトラウマになってるだけなので。ピータンちゃん。

冗談はさておき、比喩表現を誤解したまま作品を理解したつもりになっていたり、そもそも和訳が間違っていたり、感情が先に出て認知を歪めてしまうなんてケースもありますから、私の考える「批評」を行うべき時には気をつけたいところであります。

とにかく客観的に自分の主観を批判するとはいえ、主観の角度を広く持っても結局は主観ありますから限界があります。出来る事なら批評を他者に批評して貰うことがより正確な「批評」に繋がるんではないでしょうか。やりすぎると堂々巡りになりますが。
世の中にはあなたの想像を絶する「客観」があります。

たとえば、私の友人にどうしても納豆が食べられないひとが居ました。

「なんで納豆食べられへんのん」
「なんかなぁ」
「うん」
「喉がなぁ」
「うん」
「納豆食べるとなぁ」
「うん」
「ヒシヒシすんねん」

納豆を食べると喉がヒシヒシする人もいるんです。
皆様も「批評」をする際はぜひとも喉がヒシヒシする人に気を配っていただきたく存じます。

またあした。

↓おいとく(テキストライブ中にきめられた)
*いっぱい出た(うんこが)*←これはしばらく残しておきます
↑ちょっと気に入った↑これがあるとなんか落ち着く
↑うまくオチをうんこにつなげられなかったので腹を切ります

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