ほんとのじぶん-1
溺れるこころ
気晴らしにショッピングに出かけたのになんだかひどく疲れた。
手に取りやすい物で溢れた部屋は虚無感でいっぱいになる。
引き伸ばされた生活の中で我々は学んでしまった。
こうなってはもう、指一本も動かせない。
この気持ちはどこからやってくるのだろう?
決められたしあわせ
じぶんの幸せについて考える。考える必要のないことを考える。
幸福に関する考え方は時代によって変化してきたが、基本的には【豊かなこと】であったり【愛すること】あるいは【愛されること】と現代では多くの人が定義している。
誰かが決めた枠の中の幸せは一見、相対的な価値があるように見える。
しかしこのような幸福の定義は、他人の都合であっさりと更新されてしまう。
物の価値は社会の都合であっけなく変動するし、人は簡単に愛を見誤るから。
この檻から出るにはどうしたらいいだろう?
かおのない人々
インターネットの中の人たちは幸せを掲げる。
タレントが物を持つべきだと主張すれば、その反動で物を捨てろとユーチューバーが声を上げる。
幸せとはこのような手順で、このような手段であなたに与えられる観念である、と。
あるいはそのタレントは自らの明日の姿かもしれない。もしくはそのユーチューバーは将来の伴侶となるかもしれない。
いずれにしても定義づけされた幸福にヒビが入ったときにようやく、自分のオリジナルだと思っていた幸せは、誰かの劣化コピーなのではと考え始める。
見失ったのはいつからだろう?
夢ハラスメント
思えば学生時代、将来の夢の話になれば出てくるのはいつも職業のことであった。
その価値観は現代においてもさほど変わってはおらず、そのあとに続く文句は常に「努力をすれば夢は叶う」だ。
社会に出るまでに際限なく続く【夢=職業】の刷り込みは、ある程度の強制力と世間の支持を持って、子どもたちに不必要な劣等感やヒエラルキーを植え付ける。
その挙句「夢が叶わないのは個人の努力不足です・不幸は社会の言う通りにしなかったせいです」と言われる。
責任を負ってくれるのは誰だろう?
ほんとのじぶん
「こうすれば幸せになれる・これを持っていれば幸せだ」と賢いカリスマたちは言う。
色とりどりの看板を掲げて不安な人の前にやってきては、自分の幸福の定義の強度を上げるためにくだらない説教を始める。
あるいは単純に利益を目的としている人間だろうか。不安を抱えて生きているとこのようなつまらない人間を呼び寄せてしまう。
これらのボイコットを推奨し、私はわたしを主張する。
解放セヨ。これは自分を取り戻すための文章である。
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