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働き始めても"忘れたくないもの"

仕事をはじめて、やはり思うのは時間がないということだ。職場から住居まで徒歩5分のところに住んでなお、時間がないと感じるのだから、世の中に「考えることに時間を割けずバカになる者」が多い理由が分かる気がする。

私が忘れたくないものは「穿った見方」である。「穿った」と自分でいうのもおかしいが、それくらい穿った見方に自信を持って生きてきた。

しかしニートを終えた私は働きだしてしまった。会社で働くということは組織内で動くということだ。当然順応するためには相応の振る舞いをせねばならない。穿った見方なんてものは歓迎されない。

私はポジティブな言葉が嫌いだ。多くの場合、ポジティブな言葉は歓迎され、それに対する懐疑を排除する。穿った、ときにネガティブ過ぎる言葉でポジティブを排除する気はない。ただ言葉を交えて、「なぜそう考えるのか」を問い合いたいだけだ。

会社の人に私のnoteは見せたくない。暗さを見せたくない。いや、それは嘘だ。見てほしい。暗さをこれでもかと見せつけてやりたい。しかしできない。公的な世の中(会社という組織)は穿った見方を、公表するリスクをチラつかせることで事前に防いでいるから。無論、公表した場合は非情な結末を迎えるだろうから。

ごくたまに、穿った見方を他人に公表することがある。大概は怪訝な顔をされるか、大丈夫か?と心配される。そしてさらにごくたまに、共感を得られることもある。思うに、怪訝な顔をしたり、心配をする奴はバカだ。しかしそれも仕方あるまい。考えることに時間を割けていないからだ。彼らも時間があれば、穿った見方に対して、少なからず理解を示せる素養が生まれると思うのだ。

よく自己啓発本には、悩む時間は無駄だと書いてある。そして行動せよ云々。その通りである。僕だって何も生まず深く考えるためだけに終業後の貴重な時間(だって多くて1日の6分の1の時間だぜ?)を費やしたくない。しかし、悩まないと穿った見方というのはなかなかできない。時間をかけないと考えを出して、展開して、まとめられない。

肯定から入ることは円滑なコミュニケーションのために必要らしい。敢えて言おう。円滑なコミュニケーションのために肯定を必要とする奴はバカである。しかしこれもまた、前段と同じ理由で仕方がない。そして企業はそういう奴を相手にするために(マトモに相手にして事を荒らげないように)、お客様を否定しないことをマニュアル等に書くのである。

お客様は居てもらわなければならないという点で、会社より、上の立場だろうか。私は違うと思う。むしろ下だ。お客様に対して、"上"の扱いをして"下"に見ている。クレーム処理なんかは顕著な例で、とにかく否定せず、溜飲を下げてもらうことを大事にする。吐き出させて、落ち着かせる。こちらが腰を折って"上"の扱いで話を聞き、自分は"下"だと思わせない。もちろん実態は"下"なのである。

本当に彼らのことを"上"、もしくは"対等"だと思うなら、本当の思いを伝える選択を厭わない必要がある。今我々がやっているのは出まかせの言葉で赤子をあやしているようなものなのだ。

本題に立ち返る。私は働き始めて、考える余裕のないバカになって、穿った見方を忘れたくない。しかし体が不調のとき、仕事があまりに溜まっているとき、年を重ねた時、必ず私はバカになる。ああ嫌だ。死と対面する苦しさというのはこういうものを言うのだろうか。そしてだからこそ、今、若い時分に、考えることを辞めたくない。周囲に認められるものでなくても。これが私の自己実現なのだから。

追記

私の場合、自己実現の内容を口にするとき(noteに綴るとき)、多くの場合はその道に他人を勧誘している。イエスの復活を信じてもらいたいのがキリスト教の勧誘だとすれば、私のいう自己実現も、信者が俺一人のプチ宗教みたいなものである。ただ宗教と違うのは、自己実現そのものへの懐疑を厭わないことだ。そして懐疑そのものへの連続した懐疑も忘れない(私の頭ではいつもオーバーフローだが)。そして懐疑している間にこなせた実務(得られた実利)が頑として存在することからも目を背けない。

noteと言う場所でも、穿った見方は評価されにくいように感じる。タイトルで人を食うか、直観に反した数字を用いてデータを分析するか、文章を共感しやすい感情に沿わせるか。これらが代表的な評価を得る方法だろうか。コメントへの返信も似たようなものが評価されやすい。やはり穿った見方に付いていけないバカが多いのか。あんまりバカバカ言っても人が寄り付かないが、追記まで読んでくれている時点で寄り付くも寄り付かぬも関係ない。読んでくれてありがとうございました。

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