マイボ!

#サッカーの忘れられないシーン

 ボールが白線の外に出た瞬間「マイボ!マイボ!」と手を挙げながら審判の子に叫ぶ、サッカー少年N君。そして俺は心の中で呟く。

(いやおめえのボールじゃねーだろ)

 直後審判役のs君は誤審した。

 「マイボ」は「マイボール」の略でボールが場外にでたとき自分の所属しているチームにフリースローの権利があることを審判に示すために発する言葉である。専ら自分にその権利がないことを分かっていても使われていた。誤審を誘って少しでも自分たちのボールにする確率を上げる。それが教師によって咎められることもない。それが「マイボ」という言葉であった。

 当時小学4年、体育のサッカーで初めて聞くその言葉に戸惑いながらも、心の中ではおかしいだろと思っていた。自チームに権利があると信じていてなお審判に不服があるときに「私たちのボールである」と主張するのは正当だが自チームのボールでないことを確実に自覚しているにもかかわらず権利を主張するのはいかがなものかと思ったのだ。その後サッカーには痛がることで相手選手のファウルを装って、審判を欺く技術があることを知り、紳士のスポーツとしてどうなのかと思うときもあった。

 しかしよくよく世界をみると「マイボ」の文化はサッカーに限らず存在していた。バスケの授業でも「マイボ」という言葉はよく聞いたし、野球ではセーフかアウトかにかかわらず一塁コーチャーはセーフのポーズをとる。また、スポーツではないが交渉を有利に進めるために強い態度をとるというのも「マイボ」に通ずるところを感じる。

 さて、小4の自分であっても授業の間に「マイボ」の意味するところやその言葉が言い得であるという暗黙のルールには気づいてはいた。しかしそこまで分かりながら「マイボ」という言葉を私自身一度も使わなかった。そして自覚する範囲では「マイボ」に類似した行為も一度としてしたことがない。なぜだろうか。で、以下が少し考えた結果だ。

 まず、「使わなかった」「一度としてしたことがない」と書いたことを謝らねばならない。この言葉はほとんど嘘なのではないかと思うからだ。正しくは「使えなかった」「一度としてできなかった」のではないか。「可能だけど意思によってしない」のと「恐怖によって不可能だからしない」のとではもたらす結果以外のところで大きな差があるのだ。私は後者である。私は恐怖によってできなかったから「マイボ」しなかった。ボールが白線を割ったとき「マイボ!」と叫ぶ勇気がなかった。自分が周囲に抱かれていると考えている真面目なイメージやプライドを破ることができなかった。故に「マイボ」しなかったのだ。

 なぜだろうか?と考える前は「使わなかった」「一度としてしたことがない」という偽の言葉が自然と出てきた。これは反省するべき態度であった。自分は

意思によってある行為をしない強い人間 ではなく

恐怖によってある行為をできない弱い人間

なのだ。他人と勝負するスポーツというのは強い人間を育てる土壌になるというのはひとつ納得せざるを得ない。そして私は二十歳を過ぎて時間がたち、「意思によってある行為をしない強い人間」を目指すことができるのかという瀬戸際に立っていると言えるだろう。

(瀬戸際に立っている?崖から落ちていることを認められない弱さが出てますな。10年後も瀬戸際に立っているって言ってそう笑。)

(子供時代に比べて「意思によってある行為をしない強い人間」になるチャンスはぐっと減るんだよな大人時代。そんななかでスポーツはいい教材だと思うんだ。)

(「ある程度できるのが当たり前」な大人のやるスポーツは戦力にならないのが怖いからできない。素人オンリーの草サッカーリーグねえかな。あれば参加したい笑。)

(みんなが「マイボ」精神持ってるってのはそれはそれでやな世界だね。)