高山が作家として更に飛躍することを願い創作活動を支援したい!~エッセイ「ガーターベルトの女」の作品化を目指して【228】
妄想家・夢想家無名居士の夢物語の記録です
無名作家高山のエッセイ「ガーターベルトの女」の
映画化芝居化・・・その他いろいろ作品化できればなんでも
なんて途方もない夢を観ています
高山の作品から
随筆「ある人2 木田君」
2016/12/21
ロシアの最恐の大統領が日本に来て沢山のお金を貰って北方領土の問題は本当におしまいにした感じが有りますね。
この国は何時からか弱者は切り捨てるようになったのかとぼんやり思います。
昔からなのかそれとも今なのかは僕にははっきりとは分かりません。
それはまあ、私見としまして今回は前回書き残した感じのあることを書きたいと思います。
決して差別的な事ではないし京都と言う街を貶めたりはしてないつもりです。
出来たら前のエッセイ読んで貰えたら分かりやすいです。
僕の二十代前半の京都のレンタルビデオ店の事をもう少し書こうと思います。
1990年の初期の話しです。
前に書いた後にもう少し書きたいと言うの気持ちが強くなってですね。
特に二十代前半でたまたま同級生が居たってだけで福岡から移ってますから色々印象深いです。
元々は九州の田舎の出身ですが福岡はまだ九州ですから何処か繋がるけど、京都は接点がなかったのと独特な文化の所ですね。
何故かは、やはり元々都だったからでしょうかね。
決して福岡のようにどんどん伸びてる都会ではなかったですね。
三十代でもう一度行った時もうわー!って言う都市としての伸びを感じませんでした。
今はどうなのかは知りません。
しかし、多分それほどの伸びは無いのかなと思います。
古い景観を大事にしてますしそれで良いのではと思います。
レンタルビデオ店には他のアルバイトを辞めてうろうろしてたらたまたま見つけたんですね。
小さい店のウィンドウにアルバイト募集が貼ってて映画は好きだしここにしようです。
しかし、時給が五百円代でして最初は週に三回とか四回でこのままだと生活出来ないなあでしたが、少しすると一週間になりました。
約二年かなそのくらい勤めて後半は社員になってますから自分自身でも驚きますよ。
前にも書いた店長代理の事を書きます。
当時彼は二十一歳かそのくらいです。
僕も二十二歳くらいです。
辞める時に二十三か四ですよ。
一つ年下でしたが、入った時に わー!男前だけど生意気そうだなでしたし年齢聞いて え!?でしたね。
もしかしたら二十歳だったかもです。
店長は他の店を任されててあくまで店長代理でしたが、それにしても若すぎないかですね。
その会社のグループは他にもちょっとした事をしてたけど、僕が入った時は京都市内に確か三店舗を持っててレンタルビデオ業が主力でした。
京都で当時は大手が来る前でしたが二番目の売り上げをあげてると言われました。
その一番最初の店が僕が入った所です。
今でも一店舗は残ってるとも聞きますがどうなんでしょうね。
八十年代の終わりから九十年代を知ってる京都の人なら名前を書けば知ってる人も居ると思います。
まあ、それは良いです。もしもまだ一店舗残ってたら迷惑になるでしょうからね。
当時の大手じゃない個人の小さい企業がやってたレンタルビデオ店は何処も似たり寄ったりですよ。
先にこの新しいサービス業に目をつけた人が儲かったようです。
僕が店に入る数年前の話し聞くとお客も倍に近くてコピー商品を作るから経費もほとんど掛からなくてですよ。
ビデオを一本買ったら後は何本もコピーしてたようです。
それがビデオ協会か何かの問題になってアダルトビデオ以外はコピーなかなか出来なくなったようですね。
アダルトも大手が出してるのは難しくなってたようです。
それでも、儲かってたようですよ。カウチポテトと言う言い方が流行って休日にはポテトでも食べながらビデオを観ようってのが一種の流行りだったのもあるでしょうね。
店長代理仮名として木田君としますが、身長はそれほど高くなかったけどイケメンで頭の回転も良くて少年院か何かに入ってたらしくて喧嘩も強かったです。
最初は一つ年上の僕が生意気だったようですし僕も生意気そうな奴だなでそれほど親しくなかった。
だけど、昼間に二人で入ると段々話すようになって気が合うようになりましたね。
木田君は毒舌でして在日のお客や同和地区のお客が生意気だとあれは在日だからとか部落だからって言ってた。
僕も当時はそれを面白がってたし一部の目立つ在日や同和の暴れる連中は当時は好きではなかったです。
後から考えたらそれが一部だと気付くけど若くて血気盛んな頃はなかなか気づけなかった。
それでも何人かの仲の良い在日の人は居たんですけどね。
それは木田君にしたらそういう人は特別な人でした。
レンタルビデオ店でトラブった在日のグループに帰りに襲われた事も木田君は有りましたからね。
かなりの怪我をしてたけど何とか無事でした。
僕もその時に居たから帰り道を毎日変えろと言われました。
幸い僕は用心してて襲われなかったですけどね。
そういう事や色々な事が重なったと思います。
京都育ちの彼には特に小さな頃からの事が色々有るようで在日や同和地区は基本は敵でしたからね。
これは育った環境もあるだろうし僕にはそこまで敵視するのが分からなかったけど、段々そういう物だと染まって行きます。
若さのバカさですし自分自身の優位性を保ちたかったのかも知れないです。
今でも完全に人種や生まれに偏見がないかと言えば嘘になります。
今はなるべくそれを無くして行こうとしてる所です。
しかし、このブログに書いてる事で差別を助長しようなどは全く思いません。逆ですね。
僕も当然完璧ではなかったし今でももちろん完璧では無いけどなるべくそういう偏見を無くしたいです。
木田君が少し異常とも言える程在日に拘ったかは後から分かります。
育った環境だけでは無かったんですよね。
木田君が何故その若さで店長代理だったかは他の人が悪口のように教えてくれたんですが、そこの会社の社長の息子と木田君のお姉さんが結婚したかららしいです。
木田君は当時は札付きの悪だったのをお姉さんが結婚したお陰で店に入れたらしいです。
社長の息子は会社とは違う所で働いてたけど、お姉さんが心配して頼んだらしいです。
お姉さんって人に何度か会いましたが木田君がイケメンなようにお姉さんも綺麗でしたね。
木田君とは七つ位離れてて弟を心配して心配りの出来る女性でした。
店に来る時は必ず何かしら皆が食べやすい物を持ってきてたし柔らかい雰囲気の美人でした。
僕が店に入ったばかりの頃は女の子のアルバイトも居たけど直ぐに辞めてむさ苦しい若い男達だけになってからは木田君のお姉さんは綺麗で上品で皆の人気が有りました。
当然木田君はお姉さんが来るのを嫌がってましたけどね。
確か二人で昼間入っててお姉さんが来た後に木田君がぼそりと言いました。
うちの姉貴は在日と結婚しやがったとね。
何とも複雑な感じで言いましたね。
どうも後から他の人の噂など聞くと会社の社長の一族は在日なんですよね。
木田君は拾って貰った恩義もあったけど自分自身のお姉さんが在日と結婚したのは相当複雑な心境だったようです。
だから義悪的に客の在日を嫌ったのかも知れません。
その辺りの心の動きは本人にしか分からないかも知れません。
お姉さんも裕福でなかったから嫁に行ったとか言う人も居ましたから木田君もその辺りはほとんど話さなかったし何とも言えないです。
しかし、木田君は少年院とかのハンディさえなければ優秀な人間でしたね。
非常に上昇志向の強いハングリー精神を持ってましたね。
統率力とかは、凄く感じましたね。
木田君に逆らえる若い連中は居なかったですね。
皆木田君の陰口はたまに言っても木田君が優秀な事は認めてたようです。
身内のお姉さんが差別を受ける在日と結婚してそこに自分自身が拾われたってのは複雑だったでしょう。
十六才か十七才位から最初はアルバイトで店に入って歳上から色々嫌な事も言われたようです。
元々激しい性格の彼が我慢したのは大変だったろうと思いますよ。
木田君とは競馬もしましたし一番仲が良かったと思います。
女の子のナンパにも行きましたし店では僕と木田君のコンビは 的に言われるようになりましたね。
何故気が合ったのかは一つはアルバイトの若い連中は立命館とか同志社関西大学京都大学と大学生が非常に多くてそれも学校の名前的には優秀な大学が多かったんですね。
その中に中卒の木田君と高卒の僕が居たからかもです。
それは一種の劣等感があったのかも知れないです。
特に木田君にはそれがあったと思います。
中卒で少年院のような所に行ってるのだから甘い大学生を余り好きではなかったかもです。
僕は大学生とも上手くやれましたが木田君は上手くやりながらも何処かで一線を引いてたかも知れないです。
他にも高卒は居ましたが社員になったり長続きしてて同年代は僕だけでしたから僕と仲良くなるのは必然的だったのかもです。
しかし、そういう二人が店では権力を持ってたのも面白いです。
僕も木田君も大学生に学力では負けても一般的な知識や度胸では負けてなかったし仕事もそうでしたね。
まあ、向こうは一時的なアルバイトでしたからね。
僕が色々な事情から辞める時は朝まで二人でファミレスで話して僕のアパートまで送りに来ました。
僕は当時はお酒が飲めなくて延々お酒が飲める木田君はファミレスでジュースに付き合い色々話しました。
夕方から夜中の二時くらいまでですよ。
何を話したかは正直覚えてないけど、他の連中は表面的に僕の辞めるのを残念がったけど木田君は本気で残念がってました。
その時の別れ際の彼の照れ臭そうな顔と後ろを向いて片手を挙げてまたねと言ったのを今でも覚えてます。
その後ろ姿は四十代後半になった今でもまざまざと思い浮かびます。
自分自身にとっては一つの時代の終わりでしたね。
その後十年くらいして僕は何かの拍子に店に電話して木田君と話してケータイの番号を聞きました。
懐かしくなって電話したのだと思います。
それから数年に一回は木田君から電話が有りました。
店を辞めたけど会社は辞めて無くてけっこうヤバい仕事してるけど手伝わないと誘われた事も有ります。
どういう仕事かは書きませんけどね。
その時に信用出来る人間と仕事したいんだと言ってたのを思い出します。
もう五年以上電話は無いけど無事で元気なら良いなと思います。
信用してる人間と仕事をしたいは ヤバい仕事をしてた木田君にとっては本気だったと思います。
彼は結局いつも一人で何かを背負い込むような所があったように思います。
だから昔とはいえ一時的に非常に助け合った僕を求めたのかも知れないです。
彼も京都と言う一種独特な街の生まれってのを背負ってたのかなと思います。
僕のような人間から見たら京都はあちこち住んだ中でも良くも悪くも一種独特です。
沖縄の独特さとは違う古い歴史の蓄積のせいか魅力的でしかし、危うさのある街だと思います。
木田君が元気なら良いなと思うと共に彼は彼なりの何かを抱えて必死だったのだろうと考えます。
普段は関西のノリで明るいのに何かしら暗さを見せる時が有りました。
黒い何かを腹にしまい込み生きるのが時に苦しそうに見えましたね。
彼の事を思う時に京都の暑さと寒さそして、胸の何処かにチクチクと刺さる物を感じます。
彼が上昇志向とハングリー精神で成功してたら良いなと思いますが、彼の場合は成功と破滅が隣り合わせだったように思うので元気なら良いです。
単純に青春の思い出と割りきれない何かを感じます。
人は青春の感傷だと言うかも知れませんが、僕はそれは違うと思うんです。
一人の男が居たって事を書き記したいんです。
この彼の事は自分自身思い入れが強くてなかなか上手く書けなくてすいません。
なお、このエッセイはあくまで個人的体験談で差別を助長したり何かを攻撃する物ではない事をここに書いておきます。
おわり
高山の作品紹介
次回は 随筆『十二人の怒れる男』と『ブラックレイ』
「ガーターベルトの女」~映画化のために
「ガーターベルトの女」 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 番外編 番外編2 14 15 番外編3
「ガーターベルトの女 外伝」(フィクション編) 1
「新・ガーターベルトの女 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
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