高山が作家として更に飛躍することを願い創作活動を支援したい!~エッセイ「ガーターベルトの女」の作品化を目指して【233】

妄想家・夢想家無名居士の夢物語の記録です
無名作家高山のエッセイ「ガーターベルトの女」の
映画化芝居化・・・その他いろいろ作品化できればなんでも
なんて途方もない夢を観ています

高山の作品から
随筆「

2017/01/06 
今のうちに父との思い出をまとめ書きしてます。

両親と小学二年で別れて暮らし出した僕は、とにかく寂しかったです。

兄が二つ上に居たけど気質が違って何かと面倒みようと向こうはするけど、弟を引っ張り回してるような状態になりましたね。


この頃の兄はまともで優秀でと言われてました。

勉強もスポーツも出来てね。

一方の弟の僕は愛嬌はあるけど勉強は普通で、スポーツは苦手でした。

途中から始めた剣道も最初は下手でね。


それと当時は野球少年が多くてそれが嫌でしたよ。


チームで何かするのがとても嫌でした。


今考えたら、この時のチームで何かするのがとても嫌ってのが若い頃に染み付いてるんですが、後々トンネルの仕事し始めたら実はチームでするのが下手でないのが分かるんですよね。


思春期は嫌で仕方なくてね。

固定観念にやられてましたね。


固定観念と言えば僕は固定観念にやられるとしばらくダメなんですよね。


四十代を過ぎて柔軟性が出ましたね。遅いですけどね。


右翼的思想に憧れた時期があったんですよね。

今は左翼的ではないけど、どちらにも付かない感じです。


左翼的と感じられる人も多いでしょうが、なんと言うか弱者が切られて強者が残る社会や戦争への足音や、福島原発事故後の動きですね。

これ、書くと福島をと言われる人が出るかもですが、後々福島には後遺症出るでしょう。


風評被害は行けないけど延々隠すのどうなのです。


そこは細かく調べないと正直分からないのでこれ以上はさけます。


そういう動きの中で左翼的になったと言われたらそりゃ仕方ないです。


戦争を美化するつもりはないし特攻隊を美化するのは嫌いです。


特攻隊に行った人を悼むのは良いけど、あの行為を美化するのはとても嫌ですね。


話しがまた逸れたので戻します。今はとにかく自分自身を俯瞰で見られるように訓練してますよ。


固定観念を捨ててます。


そうじゃないと四十代後半の小説が好きな男が、ケータイ小説サイトに五年もいれませんよ。


良いのもあるって事ですよ。


話し戻します。すいません。

当時富山の立山で仕事をしてた父達は夏休みには呼ぶんですよね。


これが楽しみでね。


最初の年は多分呼ぶ余裕がなかったのに呼んでると思いますよ。


経済的にも苦しい時期で後から母に聞くんですが、かなりの援助を祖父母がしてたようです。


僕には祖母は特に怖くて厳しい人ってあったんですが、その辺りのお金のやりくりを祖母はしてたんですよね。


母に聞いたんですが、引っ越して直ぐに僕ら兄弟はジーンズ履いてたけどここではそういうの居ないから、ジャージを買うお金をと言われて工面するのが大変だったようです。


そのくらい最初は両親も楽ではなかったんですよね。


聞いて驚きましたが、確かに二人分のを最低二着はいるわけだから大変ですよね。


そういう中でも富山に行き始めたのは三年生だと思います。だからその辺りは祖父母の援助がかなりあったようです。

当時は家族宿舎で、多分家族と独身の作業員を入れて百人近く居ましたね。


小さい時の広島でもそうでした。生まれてから宿舎に住むって当たり前でしたからね。


そこで父は三十代で所長をしてました。


そういう点でリーダーの資質はあったんだと思います。


だけど、作業員としては一流かと言えば、所謂職人の人に言わせたら二流だったらしいです。


そういう点似てますよ。


僕もリーダーとしては良いけど作業員としては二流です。


圧倒的に上手い人が沢山居ますよ。


まあ、その家族宿舎で夏休み過ごすんですよね。


おじさん達も沢山いたしその子供達も沢山居たから、年長の僕は子供達と遊んでましたね。


とにかく遊びにも連れっててくれたけど、父は忙しくておじさんが多かったです。


それでも家族と一緒ってだけで嬉しかったですよ。


宿舎の部屋は狭いけど両親とまだ小さい妹と一緒ってだけで嬉しかった。


当たり前ですよ。三年生とかまだ子供ですよ。


遊びに行く時は大抵母方のおじさんで、事務をしてたから時間的余裕があったんでしょうね。


映画に連れってて貰ったり漫画を買いに行ったりです。


父がお金を渡していたと後で兄が言うけど、それも当たり前ですよね。


おじさんにしてみたら、甥っ子二人の面倒見るのは大変だったと思いますよ。

行く前に必ず、漫画は一冊までとか二冊までとか言われましたね。


スターウォーズやあしたのジョーを観ましたよ。


楽しかったです。

しかし、夏休みが終わりに近づくと戻るんですね。


夏休みを全部はいれなかったと思います。

三週間とかだったと思います。

夏休みが終わる直前に戻ってたから、始まって直ぐは行ってないし毎年では無かったと思います。


時には夏休みの代わりに冬とかもあったと思います。


もう当時はあちこち現場を移りだしてたから、熊本県や福島県にも行きました。


それでも富山が一番印象的で覚えてますよ。


帰りに寝台車で帰るのですが僕は大抵泣いてましたね。


キオスクで漫画を買ってもらうけど、寝台車が走り出すとこっそり泣いてましたよ。


後に兄が、弟が泣くから自分は泣けなくてと言います。


寝台車で戻ると祖母が迎えに来てましたが、九州の田舎です。

駅からけっこう時間がかかるんですが、何で戻ってたかは覚えてないです。


祖母は当時五十代ですが、体が元々強くなくてよく病院に行ってました。


だけど僕たちの前で寝込むとか無かったです。


中学になって入院しますが、それまでは弱いのを見せませんでしたね。


怖い人でしたが、きちんと食べさせてきちんとしろ、です。

親が居ないからと言われるなです。

後に周りからはあんなに孫を可愛がってたのはないと言われてたらしいです。


朝をきちんと食べさせて、夜もきちんと食べさせて。半ドンの時や休みの時は全部食べさせてましたね。


ちょっとしたおやつとかも有りました。

でも当時の子供の僕には怖い人って強くてね。


学校で練り消ゴムが流行るんですが、それを買ってくれと言うとそれは学校でいるのか?です。


延々話してやっと買えた時は嬉しかったけど万事がそうでした。


最低限の物と言うか人から貧乏人と見られない程度はしてやるです。


だけど、経済的にそれが精一杯だったんですよ。


後から母に聞きますよ。


経済的に余裕が出るのはかなり後で祖母じゃなかったから無理だっただろうです。


記憶が錯綜しててはっきりしませんが、一度入院した時におじさんの奥さんが出産で戻って僕たちの面倒みましたが、祖母とまるで違いいい加減でした。


それが当たり前なんですが僕はおばさんの子供もうるさいし、何だか祖母との静かな生活を壊されたなと思います。

子供なんて勝手ですよね。

中学に三年くらいに初めていじめにあいましてその時は祖母でしたが週刊のジャンプを買って良いかと聞くとOKでました。

その辺りから経済的に楽になったのだと思います。


その前に覚えてるのが、小学生の時にコロコロコミックが発刊されるんです。

今でも子供向けでありますね。


最初は五百ページ程あってそのうちほとんどが藤子不二夫の漫画でしてね。


藤子不二夫が大好きだった僕は興奮しましたね。

祖母に頼んだと思います。


だけど、僕らの町には本格的本屋とかなくてね。


雑貨屋に雑誌があるくらいです。


祖母が、遠くの町まで一ヶ月に一回か二ヶ月に一回病院に行っててそこで創刊号では無くて二号を買ってきてくれました。


今考えたら遠くの街に行って孫の為に買うなんて大変ですよ。


祖父はたまに戻ると、本が好きなの知ってるから自分自身で選んだのを買ってきてくれました。


漫画ではなくて少年向けの本です。


シャーロックホームズの子供向けとかね。


しかし、祖父の趣味で植村直己さんの冒険記を買ってきて、僕はそれにはまってしまいました。


祖父に読んだから次を頼むと言ったと思います。


まさか子供が一晩で大人向けの冒険記を読むと思ってなかったようで、祖父は喜びました。


その日のうちに出てる植村さんの本を全て買ってくれました。


祖父はトンネル掘りで父の下についてましたが、職人で若い頃は非常に気性も激しくて喧嘩には負けるなと言ってました。

それと格闘技やなんかが好きでしばらく戻ると、祖父がチャンネル権を握るけどプロレスからボクシング格闘技が大好きでしたね。

僕の剣道を一番喜んだのは祖父ですね。

祖父は孫が可愛かったんでしょうね。


僕は厳しい祖母より豪快な祖父が好きでした。

しかし、豪快なのは全部後から後始末してたのは祖母なんですね。


中学の半ば位になると両親が戻るけど離れた街で暮らしてて、父は時間を見つけては僕達に会いに来ました。


兄は高校になると同時に街の方に引き取られます。

この頃から土日になると、車で一時間弱の街に住む両親の所に行くようになりました。


帰りは何故か必ず母で毎回ドリフターズのテープをかけながら帰りました。


父はまだ忙しかったんだと思います。


父はそれでも平日にいきなり来たりしました。


剣道をしてたからあちこち痛いんですよね。

それもこの頃一番剣道に打ち込んでたから練習量は凄かったですね。


父はマッサージして揉んでくれたりしましたね。


段々とレコードプレイヤーを買ってくれたりしてレコードを街に行くと買ってくれました。


経済的に余裕が出始めたんですよね。


ある時祖父も含めて皆で焼き肉に行ったら、車の中で祖父が誇らしげにお父さんはシャチョウになったぞと言いました。


僕にとっては現場の所長とシャチョウはどう違うのだろうですよ。

父が社長になるより僕にとってはいつ完全に暮らせるのでしたからね。


父は僕が本を読むのに感心してて、本なら何時でも買ってやる等と言いましたね。


本を読まない父にとっては本を読む=頭が良いだったのでしょう。


この頃から漫画や本をかなり買ってくれるようになりました。


まるで離れてた分を取り戻すようにね。


剣道の試合には祖父だけ、多分一度来ただけでした。


兄の野球の方に賭けてましたね。


父も野球少年だったからでしょう。

それがこの頃になると剣道についても聞くんですよね。


それと次男はそういうのはダメと思ってたのが誰かから聞いたのか、かなり強いと聞いてきて喜んでました。

長男には関心が強いってのは普通です。

だいたい次男はほったらかしって周りもいってましたね。


それでも父なりの事をやっとしてくれ始めた時でした。


後に祖父が亡くなり祖母が亡くなるけど、祖母の遺言に僕と兄の面倒見てる時が一番楽しかったと書かれてたらしくて衝撃を受けます。


祖母は、僕達を実は必死に不器用ながらも愛したんですよ。


父はこの辺りから徐々に伸び始めて、数年後に一気に伸びます。


会社が残ってて酷い倒産をしてなければ、これもある種の成功の話しですが、数年後に一気に伸びて数年後に一気に倒産しますからね。


それでも今でも富山に行ってた頃の事を楽しく思い出せます。


富山県は僕にとっては重要な場所の一つです。

こういう放浪のような幼少期を過ごすと、幾つか重要な場所がありますね。


僕は、父に社長になってほしいとか無くて一緒に居たかったけど、それは仕方ない事ですよ。

祖父母や周りの協力で僕は育ったと思います。   


周りには感謝してますよ。

今回も話しがあちこち飛んだし、書いてないことも有るけど多分祖母が厳しくなくて、そして漁師町の人たちが優しくなかったら僕はぐれてたでしょう。
 
今回は父より亡くなった祖母の事が多く出ますが、子供の固定観念や勘違いで祖母を怖がってたのを今では悪いなあと思います。

こういうのを書くからといって幼少期が不幸だったとは思いません。


周りにはまだ信じられない環境が沢山ありましたからね。


追伸
今日、父は朝方気分悪いと言うので、無理矢理救急車を呼んだけど嫌がりましたね。

病院に行くと熱があって脱水症状が軽くあり、入院までは出来ないと言われました。


しかし、もう立てないことも多くて良く転んでます。

余程にならない限りは入院はさせないのでしょうね。

余程悪くなった時にはもう遅いのにって僕は思うけど、高齢者が多いから入院させてたらきりがないんでしょうね。


頑張って働いて身体を悪くして、そういう物なのかと思うと何だか色々考えますよ。

おわり

高山の作品紹介
次回は 随筆「ある女の子」

「ガーターベルトの女」~映画化のために

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