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52.「東アジアの思想」という話(36)_17908

52.「東アジアの思想」という話(36)_17908

【唐の女】
《則天武后》
〈傾国の美女〉
 唐の第二代皇帝太宗(李世民)は、貞観の治から大唐帝国を築きました。しかし、偉大であればあるほど継ぐ者は大変な労力を強いられます。

 第三代皇帝高宗(李治)は若く病弱でしたので、太宗は死に臨み信任する高官に後見を託します。しかし、その高宗が皇后に選んだのは、太宗の後宮にいた才ある美しい女性武照でした。

 いつものパターンですと、「前の王朝は、次代の王の幽閉・傾国の美女・諫言者の殺害・豪奢な宴会、次の王の優秀な補佐人によって滅ぼされる」のですが、傾国の美女武照は自ら国を滅ぼします。

 武照は、太宗の継子李治に「あは~ん♡」します。年下の李治はメロメロです。

 太宗が崩御したあと、武照は出家します。別に世を儚(はかな)んでという理由ではなく「戸籍をリセット」するためです。「一度出家してから還俗すると前とは違う人生」という訳です。

 とはいえ、天子といえども継子が継母と結婚するなど、儒教ではあってはならないことです。輔弼(ほひつ)――天子を助けていた高官は大反対します。武照はどうしたか。

 暗中飛躍――暗躍です。大唐帝国を実現させた高官の抹殺です……。

 一方で、皇后になった武照は時代の変革者となりました。科挙による新しい人材を登用することで、六朝時代の貴族を一掃し、士庶の別が解消されたのです。

 武后に認められた姚崇(ようすう)や宋璟(そうけい)は、後に第九代玄宗の宰相となり、開元の治が開かれます。

   *

〈武周〉(六九〇年−七〇五年)
 高宗が崩御すると、第四代中宗が即位しますが、武后はすぐに廃位してしまいます。続く第五代睿宗に至っては、廃位させた後に、武后自らが皇帝となります。中国史上唯一の女帝則天武后の誕生です。

 武后は、国号を「周」としました。唐は老子の末裔でしたが、武后は仏教を重んじました。左遷されていた名臣狄仁傑(てきじんけつ)を宰相にしました。

 しかし、息子からとはいえ、帝室の簒奪は許されることではありません。儒教では、大罪です。

 悪辣非道な恐怖政治により一定の秩序はありましたが、反対勢力は根強くあり、唐復活の兆しが強くなってきます。

 やがて、病に臥せった武后は、唐朝再興を許し、すぐに亡くなります。

 簒奪した則天武后の歴史的評価はかなり低いです。ましてや女性です。この時代、女性に仁徳はないとされていたのです。

   *

《韋后》
 七〇五年、第四代中宗は重祚(ちょうそ)――復位して、第六代皇帝となります。しかし、まだ暗雲は晴れません。中宗の韋后(いごう)です。

 そもそも中宗が廃位させられたのは、韋后の力に頼って武后を排除しようとしたからです。そのことから中宗の韋后に対する信任は厚いものがありました。

 七一〇年、韋后の暗躍から、娘の安楽公主が中宗を毒殺し、中宗の末子を第七代殤帝(しょうてい)として即位させます。則天武后の真似です。韋后は女帝に、安楽公主は皇太女になろうとしたのです。

 形を真似ても器はできません。則天武后は夫を殺すようなことはしませんでした。女性である以前に、そもそも韋后にも安楽公主にも仁徳はなかったのです。

 韋后は、武后の甥の武三思(ぶさんし)と通じていました。安楽公主は武三思の子の武崇訓(ぶすうくん)に降嫁しています。となると、政治は韋后と武三思の思い通りです。

 安楽公主の皇太女計画に対して、皇太子李重俊(りじゅうしゅん)が武三思・武崇訓父子を殺害します。しかし、刃は韋后や安楽公主に届きません。韋后の実子ではない李重俊は自滅してしまいます。

 安楽公主はというと、武崇訓の再従兄の武延秀(ぶえんしゅう)に嫁します。懲(こ)りないというか、より派手になります。

 安楽公主の山荘は、「民田を奪って定昆池(ていこんち)をつくり、石をかさねて華山(かざん)にかたどり、水をひいて天津(てんしん)になぞらえた」(※)そうです。

 ※礪波護『中国文明の歴史5 隋唐世界帝国』(中央公論新社、二〇〇〇年)二二九頁

「定昆池」は豪華壮麗な人工池です。いろいろな美しい形容詞がありますが、容赦なく割愛します。かつて、鈴鹿サーキットを造るときに、百姓の土地をつぶす案に反対した本田宗一郎(※)の立場がありますから。

 ※ホンダ(本田技研工業株式会社)の創業者です。

 石で有名な華山は霊峰五岳の「西岳華山」です。道教の寇謙之が、五岳の「中岳嵩山」にこもっています。

 cf.
『50.「東アジアの思想」という話(34)』

 天津は運河で有名です。もっともこの運河も人工です。造ったのは、あの有名な煬帝です。

 cf.
『44.「東アジアの思想」という話(28)』
『48.「東アジアの思想」という話(32)』

   安楽公主は織成裙(しょくせいくん)というすばらしいスカートを着用することがあったが、その値は一億銭だったという。花卉鳥獣の形が織り出されており、それがみな粟粒のような小ささで、真正面からみるのと、斜めにみるのと、また陽のあたるときとあたらないときとでは、それぞれちがった美麗さを呈したという。また百鳥毛裙(ひゃくちょうもうくん)というのをつくらせたが、それが流行のさきがけになった。それはめずらしい鳥獣を網羅してつくったのだという。正倉院に蔵されている鳥毛立女屏風に描かれている美人のスカートは、この百鳥毛裙をうつしたものと考えられている。
   礪波護『中国文明の歴史5 隋唐世界帝国』二二九頁

 cf.
 正倉院宝物検索「鳥毛立女屏風」
 http://shosoin.kunaicho.go.jp/ja-JP/Search

 一方、安楽公主と競ったのが、第三代高宗と則天武后の娘の太平公主です。安楽公主にとっては、叔母にあたります。母の武后に似た太平公主は「文化的な生活」をします。もちろん、贅沢の限りを尽くして。

 やがて、韋后と安楽公主が中宗を亡き者にし、第七代殤帝が即位しますが、第五代睿宗の三男李隆基(のちの玄宗)の挙兵により、韋后と安楽公主とその一味は斬られます。

 七一〇年に殤帝は廃され、第五代睿宗が重祚して、第八代皇帝となります。しかし、まだ暗雲は晴れません。則天武后の娘の太平公主です。

 七一二年、第八代睿宗は第九代玄宗に譲位します。玄宗、実に二十八歳。三男でありながら武功で皇帝になりました。

 愚かな太平公主は陰で謀りますが露顕し死を賜ります。

 翌七一三年、ここに、太宗の貞観の治と並び称される玄宗の開元の治が始まります。

   *

《楊貴妃》
 次男でありながら武功で皇帝になった第二代太宗はつとめて武照(のちの則天武后)を避けました。しかし、第九代玄宗はそうではありませんでした。

 第三代高宗が継子でありながら継母と通じたように、玄宗は義父でありながら息子の妻と通じました。

 儒教ではあってはならないことです。楊貴妃はどうしたか。長くなるので、また別の機会にしましょう。

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【参考文献その他】
 ○礪波護(となみまもる)『中国文明の歴史5 隋唐世界帝国』(中央公論新社、二〇〇〇年)


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