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46.「東アジアの思想」という話(30)_17730

46.「東アジアの思想」という話(30)_17730

【晋】
《西晋》(二六五年−三一六年)
 魏(三国)に代わって、権臣司馬炎(武帝)が晋を建てます。首都は後漢・魏(三国)と同じく洛陽です。なお、平安京の左京(東京)は洛陽にたとえられ、今でも京都で「洛」が使われています。右京(西京)の雅称は長安です。

 ちなみに、紫宸殿の南階下の東方にあるのが「左近の桜」です。儀式のとき左近衛府の官人がその側に列しました。西方が「右近の橘」です。ややこしいですが、「〈さ〉こんの〈さ〉くら」と覚えましょう。

 二八〇年に、晋は呉(三国)を滅ぼして、天下を統一します。ともあれ、晋の実質的な創立者は、司馬炎(武帝)の祖父の司馬懿です。かつて、曹操が後漢でやったように、司馬懿は魏(三国)において皇帝の実権を奪い、子・孫が皇帝になりました。

 西晋も長くありませんでした。統一した司馬炎(武帝)は倦(あぐ)み、その子の恵帝は暗愚で外戚や皇后が政権を私したのです。

 そして、異民族です。

 永嘉の乱(えいかのらん)(三〇七年−三一三年)によって、匈奴が洛陽・長安を陥れ、西晋を滅ぼします。ここに、五胡十六国(ごこじゅうろっこく)時代の幕が開かれます。

   *

【五胡十六国時代】(三一六年−四三九年)
《東晋》(三一七年−四二〇年)
 晋の皇族司馬睿(元帝)が、華南(中国の南)の建康(南京)に再興しますが、混乱したまま、将軍劉裕に滅ぼされます。

   *

《五胡十六国》(三〇四年−四三九年)
 華北は、もう無茶苦茶です。春秋戦国時代もごちゃごちゃしていましたが、五胡十六国時代になると、漢人以外の異民族の国が乱立します。

 ・匈奴(きょうど)―前趙(漢)・北涼・夏(大夏)
 ・羯(けつ)――――後趙
 ・鮮卑(せんぴ)――前燕・後燕・西秦・南涼・南燕
 ・氐(てい)――――成(大成・漢)・前秦・後涼
 ・羌(きょう)―――後秦
 ・(漢族)―――――前涼・西涼・北燕

 どうして北の異民族が、南に下りてきてしまったのか。たまたまですけれど、二世紀後半から北アジアの気候が寒冷になったからです。飢えは人でなしをつくります。漢人は祖宗の地を離れ、南方の未開で湿潤な地へと流浪の旅を強いられました。

 中国の北方と西方から乱入した諸氏族は、長いあいだ中国に接してきたので、中国の文化に同化していました。逃げた人が多かったとはいえ、支配民族より、残っていた人のほうが多いのですから、上手に中国式の王朝をつくりました。

 少数民族による多数民族を支配は、多くの歴史にあります。中国での他民族による支配はこの時代だけに終わりません。後の「中国の王朝」である元や清も、漢人ではありません。

 さて、一方で西走した騎馬遊牧民族フンは、四世紀後期にヨーロッパに侵入します。東ゴート族・西ゴート族を圧迫して、ゲルマン民族大移動の原因をつくりました。この大移動でヨーロッパの民族地図は書き改められます。古代が終り、暗黒の中世になるのです。


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