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48.「東アジアの思想」という話(32)_17801

48.「東アジアの思想」という話(32)_17801

【南北朝時代】
《南朝》
 南に逃れた東晋のあとの、漢人の四朝(宋・南斉・梁・陳)を南朝と呼びます。対して、北朝(北魏・東魏・西魏・北斉・北周)は異民族です。

   *

〈六朝〉
 呉(三国)の首都は建業(けんぎょう)です。東晋のときに建康(けんこう)と名を変えますが、場所は同じ今の南京です。続く南朝も建康を首都にしましたので、呉(三国)から陳までを六朝と言います。

 ・呉(二二二年−二八〇年)
 ・東晋(三一七年−四二〇年)
 ・宋(四二〇年−四七九年)
 ・南斉(四七九年−五〇二年)
 ・梁(五〇二年−五五七年)
 ・陳(五五七年−五八九年)

 文化としては華やいだ六朝時代ですが、世襲貴族の力が強いわりに政治に関心が少ないので、王朝としては短いものが多いです。

 高級官僚である貴族が仕事をせず、特権を行使しつづければどうなるか。北を統一した隋にあっさり破れてしまいました。

   *

《北朝》
 北朝(北魏・東魏・西魏・北斉・北周)は、五胡十六国(三〇四年−四三九年)につづき、異民族が支配する国です。寒冷地の遊牧の部族国家が、漢人の貴族を追い出して、武力制覇した国です。

 ・北魏(三八六年−五三四年)
 ・東魏(五三四年−五五〇年)/西魏(五三四年−五五七年)
 ・北斉(五五〇年−五七七年)/北周(五五七年−五八一年)

 ここで逆転現象が起きます。征服したはずの異民族が、中国社会で落ちこぼれてしまうのです。それはそうです。まったく違う文化です。武力ではなく、中国の政治です。遊牧ではなく、農耕です。異民族が、中国の政治や農耕に詳しいはずがありません。

 それに平和です。武人は役に立ちません。

 さて、北魏の施政者はどうしたか。

 中国文化に深く傾倒した若い孝文帝(在位四七一年−四九九年)は、洛陽に遷都し、北族の生活・文化を中国化(!)しました。

 洛陽は、後漢・魏(三国)・西晋の都です。文治――文明(学問・芸術・文学)による統治を行おうとしました。

 それは逆に、族人の反乱を招きました。文治は理想論です。北魏は東西に分裂しました。

 やがて東魏・西魏は、それぞれ北斉・北周に代わり、北周は北斉を破り北朝を統一します。

   *

【隋】(五八一年−六一八年)
 北朝から出た隋は、北朝の北斉の静帝より禅譲を受け、南朝の陳の後主を降し、西晋が破れて以来(三一六年)ようやく南北を統一します。

 北周の武人だった隋の初代皇帝楊堅(ようけん)(文帝)は、大興(後の長安)を都としました。

 北朝の中央集権を高め、南朝の貴族を否定しました。科挙の登場です。前述の『44.「東アジアの思想」という話(28)』【科挙制度の確立】を参照してください。

 文帝は、次子楊広(煬帝)に殺されたそうです。皇太子を廃位された長子楊勇(ようゆう)ももちろん……。

 煬帝は、長城によって北を防衛し、西方の東西交通路を回復したので、西域の国家は隋に朝貢(ちょうこう)するようになりました。ヴェトナムや真臘(カンボジア)や赤土(スマトラ)も朝貢しています。朝鮮半島の百済・新羅や日本も例外ではありません。

 ただ、唯一隋の煬帝の「徳」に従わなかったのが、ツングース系民族の高句麗です。隋は、三度の高句麗遠征を強行します。『孫子』にあるように、戦争は国を疲弊させます。

 外交上手だった煬帝は、日本の「日出處天子」に対して、裴世清(はいせいせい)という官人を、遣隋使小野妹子らの帰国に随伴させています。

 煬帝の歴史的評価は低いです。驕奢から国を傾けたのは事実ですが、一級の文人であったことは否めません。


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