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44.「東アジアの思想」という話(28)_17728

44.「東アジアの思想」という話(28)_17728

【前漢(2)】(紀元前二〇六年−紀元後(西暦)八年)
《官吏任用制度》
 紀元前一三六年に、第七代武帝は五経博士を置き、儒学(儒教)を国教化しました。

 それとともに、紀元前一三六年に、官吏養成の国立大学「太学(たいがく)」を創設します。世界に類を見ない官吏任用制度の形成です。

 漢代以降、優秀な人材を現職官僚に推挙し登用することになりました。

 最初は「選挙」でした。とはいえ今の選挙とは違い、官吏候補者を民間から選ぶことを意味しています。

 漢代では、郷挙里選(きょうきょりせん)によって、地方長官が候補者の評判を聞いて推挙していました。

 魏晋南北朝では、九品中正(きゅうひんちゅうせい)によって、地方の中正という官が候補者を九段階に評価して推挙していました。九品官人法(きゅうひんかんじんほう)とも言います。

 こうした「選挙」から、科挙(かきょ)以後は試験になります。科挙は士大夫(したいふ)という官僚知識層をつくりました。

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【科挙制度の確立】
 儒学の国教化から、政教一致による学校制度を確立することで、優れた官吏任用制度になりました。

 これは統一国家だからこそできたことです。それまでの世襲封建領主による地方支配から、皇帝が任命した知事・官僚の派遣へと変化します。

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《科挙》
 科挙は、民間からの官吏任用制度です。それまでの九品中正という推薦では、どうしても貴族の子弟が選ばれてしまいます。

 そこで、隋(ずい)(五八一年−六一九年)の文帝が、科挙という試験で採用することにしました。なお、中央集権的帝国を樹立した文帝はとても良い政治家でしたが、二世煬帝(ようだい)が乱して滅んでしまいました。

 煬帝は、京杭大運河(けいこうだいうんが)の工事を強行させた暴君です。この狂王に「日出處天子」が国書を送りました。天子は世界にたった一人しか存在してはならないのに、です。日本は、けっこう無茶な外交をしています。

 さて、科挙ですが、かなり難しかったようです。ですから、当たり前のようにカンニングがありました。ただし、バレたら最悪死刑です。皇帝の側近(になるかもしれない人)を選ぶ訳ですから。

 賄賂や買収もあったようです。及第し、官僚になりさえすればウハウハな人生が待っていたのですから。それも一人だけではありません。一族が栄華をきわめるほどでした。ですから、かなりプレッシャーがありました。

 落第して自殺した人もいました。たとえば、唐の玄宗の夢の中で、魔を祓い病を癒した鍾馗(しょうき)が有名です。日本では五月人形になっています。

「其の聲は、我が友、李徴子ではないか?」

中島敦『山月記』

 李徴は「若くして名を虎榜(こぼう)に連ね」とあります。「虎榜」は試験に及第した人の名前が書かれた札です。そう書かれるぐらいですから、相当賢かったのでしょう。性格が災いして発狂してしまいましたが……。

 試験に受からなければ話になりませんから、二浪三浪どころか二十浪三十浪とかしている人もいました。

 かなり無茶な試験だったらしく、狭い部屋に入れられると三日間出ることができませんでした。食料も持ち込みできましたが、フォーチュン・クッキーよろしくカンニング防止のために中を確かめられました。

 試験中は大きな門は閉じられたままです。もし途中で亡くなっても、塀越しに外に出されました。

 なお、解答は王羲之(おうぎし)の書体と決められていました。とても綺麗です。王羲之の文字を書いていないと、たとえ正解だったとしても、不合格になったそうです。

 当然ですが、幼いころから勉強する必要があります。一応、民間から「誰でも試験を受けることができる」科挙制度でしたが、家が貧乏だとなれませんでした。

 現代のように働きながら夜間学部に進学するとか、通信教育もありませんでした。そういえば、柳川範之さんは、大学入学資格検定試験に合格し、慶應義塾大学通信教育課程を卒業して、東京大学大学院経済学研究科教授になっています。

 念願かなって合格すれば、士大夫(したいふ)という官僚知識層になります。士大夫は、儒教の人治理念を実践しました。繰り返しますが、日本は法治国家です。

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《「先憂後楽」》
 士大夫の代表的な考え方は、北宋(九六〇年−一一二七年)の范仲淹(はんちゅうえん)の「先憂後楽」という言葉に代表されるでしょう。

「天下の憂いに先立ちて憂え、天下の楽しみに後れて楽しむ」

范仲淹『岳陽楼記』

 ここに士大夫たちの自負があります。完全に天下を自分のものとして考えています。

 なお、岳陽楼(がくようろう)は、湖南省岳陽市にある城楼で、洞庭湖(どうていこ)の眺望絶佳の場所として有名です。

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【朱子学(1)】
 南宋(一一二七年−一二七九年)にあって、朱熹(しゅき)(一一三〇年−一二〇〇年)が儒学の体系を変えます。朱子学の登場です。

 朱子学による体制教学は明・清の時代まで引き継がれることになります。

 朱子学は、士大夫と呼ばれる科挙官僚層の生き方を律する思想です。

 朱子学は、朝鮮に伝わり、中国の明に従属していた李氏朝鮮(一三九二年−一九一〇年)の思想に深く根を下ろします。

 李氏朝鮮は、豊臣秀吉の文禄の役(一五九二年−一五九三年)・慶長の役(一五九七年−一五九八年)によって窮地に立たされ、宗主国「聖人の国」明に救いを求めます。結果的に、李氏朝鮮は存続しますが、明は疲弊し清に破れます。

 当然、「野蛮国」日本にも伝わりました。江戸初期の林羅山(はやしらざん)(一五八三年−一六五七年)は身分制度を正当化しました。

 そもそも科挙官僚層の思想です。しかし、江戸幕府には科挙がありません。どれだけ歪な思想だったか想像できるでしょう。

 たとえば、天動説の林羅山は、イエズス会のハビアンの地動説を否定しました。

 皮肉ですが、この歪んだ思想のために、身分制度を正当化した江戸幕府は自滅することになります。


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