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_【号外】『荀子』という話(1)_17911

_【号外】『荀子』という話(1)_17911

 正義って何でしょうね。

『荀子(じゅんし)』に「義を正にして行う。これを行という」(※)とあります。『荀子』は今から二千年以上も前の書物ですから、正義はかなり古い言葉です。

 ※『荀子(じゅんし)』「正名」に「正義而為謂之行」とあります。

 それだけ古くからある言葉「正義」ですが、正義を行う人より、翻弄(ほんろう)される人のほうが多いのは何故でしょうか。

 自分が思うより他人(ひと)はよく考えているものです。

 少し考えてみましょう。

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【荀子】
『荀子(じゅんし)』を書いた荀子(じゅんし)は紀元前(B.C.)四世紀末に生まれたとされています。いちおう紀元前三一三年から紀元前二三八年に生きたとされているのですが、なにぶん古いのでよく分かりません。

 この「よく分からない」というのは私が調べていないとかそういうものでもなく(※)、学者が調べても「よく分からない」という意味です。歴史書がつくられるようになってからは正確になるのですが、この時代(Before Christ)の中国はまだまだ分からないことが多いのです。

 【要確認】荀子の生没年を再度調べます。

『三国志(さんごくし)』でお馴染みの荀彧(じゅんいく)(一六三年(延熹六年)−二一二年(建安一七年))や荀攸(じゅんゆう)(一五七年(永寿三年)−二一四年(建安一九年))が荀子の末裔といわれています。

『三国志』は歴史書ですから、荀彧や荀攸の年代もはっきりします。ここでは、荀彧や荀攸の話はしません。たぶん皆さんのほうがよくご存知でしょう。

 よく勘違いしている人がいるのですが、『三国志』とは別に『三国志演義(さんごくしえんぎ)』という小説があります。こちらは「演」の文字があるように、楽しませるための「演出(嘘)」があります。一部は虚構(フィクション)な訳です。

 かなり『三国志』を読み込んで描かれていますので、『三国志演義』の内容を本当に思っている人もしばしばいます。演出のある歴史映画を見て、それが史実だと勘違いしてしまうことはよくあることです。

 人間は、自分にとって楽しいこと、都合のよいことを真実だと勘違いする生き物なのです。

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【性悪説】
 荀子は「性悪説(せいあくせつ)」をとなえました。人の本質は「悪」だというのです。

「人之性惡、其善者偽也」
「人の性は悪なり、その善なるものは偽なり」

『荀子』「性悪」

「人の本性は弱いもので、その善というものは偽です」

 意味が通じるように意訳(いやく)しましたが、この場合の「悪」は積極的に悪行をすることではありません。弱い性質なので出来心で「ついやってしまう」ということです。ままもっともそれが悪行になるのですけれど。

 なお、「人は性悪だから罪罰を厳しくすべきだ」という意見とは別の話です。

 ですから、『易経(えききょう)』の六四卦の二一「噬嗑(ぜいごう)」の「校(あしかせ)を履(ふ)みて趾(し)を滅す。咎(とが)なし」(※)とは関係がありません。

 ※『易経』「噬嗑」に「初九、屨校滅趾、无咎」とあります。

 こちらは刑罰の話で、悪さばかりするどうしようもない小人(しょうじん)は「足枷(あしかせ)をして自由を奪うことで今後、悪事ができなくなり、咎(とが)められることはない」ということです。『易経』の話は長くなるので、別の機会にしましょう。

 人間だれしも欲望はあるものです。その欲望を、愛をも捨てなさいと言ったのが釈迦(しゃか)です。釈迦については、別の機会にしましょう。

 なお、「性悪説」とは別に「性善説(せいぜんせつ)」もあるのですが、こちらも別の機会にしましょう。

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【学問のすゝめ】
 荀子は『荀子』の一番最初に「勧学(かんがく)」をおいています。

「學不可以已。青、取之於藍、而青於藍」
「学(まなび)はもって已(や)むべからず。青は藍(あい)よりとりて、藍よりも青し」

「学ぶことを止めてはいけません。青は藍で染(そ)められますが、藍よりも青いのです」

 何のことはありません、荀子は「(欲望に負けないために)勉強しろ」と言っています。

 荀子は「人は先天的に(生まれながらにして)か弱い生き物ですから、後天的に(本質は変わらないので後から)きちんと勉強をして善を学びましょう」と説いているのです。

「勧学」は「学びの勧(すす)め」です。もちろん日本人なら誰でも知っているあの本の題名ですね。

『学問のすゝめ』は「『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』と言えり」で有名ですが、対の句があります。それは「賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり」です。

 cf.
 福沢諭吉『学問のすゝめ』「初編」

「と言えり」とは「と言われている」です。意訳すると「人は平等だと言われている。――だが実際は賢い人と愚かな人がいて、その違いは学ぶか学ばなかったかの違いでできる」と言っています。まま、イコール「勉強するならうち(慶應義塾)においでよ」(一万円札の中の人)ですが……。#joke

 なお、『学問のすゝめ』は単に「勉強しましょう」という本ではなくて、列強諸国による侵略から「いかに独立すべきか」という政治思想的な本です。

「青は藍よりとりて、藍よりも青し」は、古人の作った詩文の成句(せいく)の一つ「青は藍より出(い)でて藍より青し」の原典です。「出藍の誉れ(しゅつらんのほまれ)」とも言います。

 藍染(あいぞめ)といえば落語の『紺屋高尾(こうやたかお)』がありますが、こちらは別の機会にしましょう。

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【正義の本質】
 こうして『荀子』を考えてみると、「正義の本質」なるものが何か分かるような気がしませんか?

 きちんと状況を鑑(かんが)みないと、正しさというものは脆(もろ)いということです。

「性善説」の孟子(もうし)に「天の時、地の利、人の和」があります。

cf.
『「言った言わないは言っていない」という話』

「天が与える時であっても地の利には及ばないし、地の利であっても人の和には及ばない」という「天の時、地の利、人の和」は、イコール「時代、背景、人物」ですし、それはつまり「時期、環境、人格」です。

 時代が変われば、正義の本質も変わります。たとえば、ソビエト社会主義共和国連邦のヨシフ・スターリン(一八七八年十二月十八日−一九五三年三月五日)の独裁時代の正義がどんなものであったかは、粛清(しゅくせい)された人の数で判断できます。ブラックジョークです。

「愛と平和と正義。このうち一つでも素面で言ったなら、悪人と相場は決まっている」のです。

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【正義のベクトル】
 真理の話のときに「それぞれの真理はあり、触(ふ)れることはかないませんが確かにあるのです。月を指さす手はいくつもあり、ですが月はたった一つなのです」と述べました。

 cf.
『「言った言わないは言っていない」という話』

 正義も同じようなものですが、ベクトル(大きさと向きを持った量)があります。

 山の頂が「真理」だとしましょう。その頂きに正に向かうことが「正義」です。ですが、山には東西南北があります。同じ正義でも向きが逆だということは、よくあることです。

 また南のハイキングコースと北の壁では力加減も変わります。パラシュートで頂に直行する人もいれば、頂を爆破しようとする人もいます。気をつけましょう。

 もし正義を行うなら、毎回毎回立場を確かめたほうがいいですね。

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【正義と嘯く】
 さて、「嘯く」は何と読むでしょうか?

「とぼける」や「大口を叩く」という意味で、「嘯(うそぶ)く」と読みます。

 正義なんて所詮(しょせん)そんなものなのかもしれません。正義に守られた平和は案外、不安定なのかもしれません。

 正義は毒薬のように人の感覚を鈍らせる恐怖があります。確かめもせず自分の感覚で経験で、正義を行うならそれは多くを傷つけることになってしまいます。注意してくださいね。

『ガルシアへの手紙』という作品がありますが、別の機会にしましょう。

 そうそう、「正義の味方」という人たちを失念していました。多くは傍迷惑(はためいわく)な人たちですが、たまに本物がいます。嘘を本当に変える人です。真摯(しんし)に深く深く物事を考え、その上で正義を嘯きます。

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【参考文献その他】
 ○『荀子』
 ○『三国志』
 ○『三国志演義』
 ○『易経』
 ○『孟子』


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