泣かなくていいんだよ ワコのあるきかた4


かわいがってくれたひと
               桜乃いちよう

 

ワコにはヘンな癖があった。
 オシッコをがまんしてしまう。
 ぎりぎりのところまで。

 がまんをすると、おなかがとても苦しくなる。
 でも、トイレに行くのは、めんどうくさい。
 なぜなら、お便器に座る動作をするのがとても時間がかかるし、パンツを下ろすのも大変だから。
つまり、動くのがめんどうくさい。

 早めに行けば、ゆっくりパンツを下ろしても、ゆっくりお便器に座っても充分間に合うはずなのに、ぎりぎりまでがまんするものだから、きき手も緊張して思うように動かなくなる。

 一年生の三学期。真冬のある日。
 なんとなくいつものようにトイレに行きたいような気がしていたのだけれど、ついつい、
「まだいいか」
 などと思ってしまった。それが間違いだった。
 そろそろもう行かなくちゃ、と思ったとき、地べたにトンボ座りをしていたワコは、思うようにからだが動かなくて、よつばいの姿勢になれなかった。
 動けないまま、その場で限界になった。

 床が濡れていくのを見て、何を思ったのかワコは泣き出した。
 すると、すっすっすっと静かに近寄ってきた人がいた。


 「ホーム」職員のカドキさんだった。

 カドキさんは、いつも静かに仕事をしている人だった。
 ワコはあまり話したことはないし、あまり会うこともなかったが、いつも忙しそうに動きまわっていた。
 ワコにとっては、おばあちゃんのように歳をとった人にみえた。
 洗面所でいっしょになると、よく、口の中から大きな入れ歯をぱかっとはずして、手際よくさささっと洗い、またぱかっとはめた。
そばで見ているワコに気がつくと、ニッと笑った。
 もう入れ歯には思えない、歯が、真っ白くて印象的だった。

 カドキさんは、あまりワコたちと話さなかったから、甘えられる人でもなかった。 だから声をかけられたとき、ワコは少しびっくりした。
「ワコちゃん、こういうときはね」
 カドキさんは、一目見てすべてをわかったように、ワコに話しかけてきた。
「こういうときは、泣かなくていいんだよ」
 ワコは、泣き止んで、カドキさんを見た。
「ただ黙って、自分で着替えたらそれですむんだから」

 えっ、とワコは思った。


実はワコは、オシッコを漏らすことはとても悪いことだと思っていた。
「いえ」で暮らしていたとき、なんとなくそう思ってしまったのだと思う。
 悪いことをしたと思うと、そのあとどうしていいかわからなくなる。何か途方もなく怖い。
怒られるのは怖いし、「ホーム」ではそういうことはないけれど、ぶたれるかも知れないと、なぜか思ってしまって、怖い。
 今回もどうしたらいいかわからなくなって、泣いてしまっていたのだった。


 カドキさんは言葉を続けた。
「オシッコを漏らしちゃうことは、確かに失敗だけれど、わるいことじゃないんだし、自分で始末してしまえばそれで終わるんだよ。泣いちゃったら、みんなにばれちゃうじゃないか」
 そういいながらカドキさんは、きれいなパンツとズボンをワコのタンスから探し出し、ささっとはき替えさせてくれた。
 床もきれいに拭いてくれたので、オシッコのあともにおいもなにもなくなった。
 

そうか、泣く必要はないんだ、とワコは初めて思った。
 泣かないで物事を片付ければ、一人の心の中の出来事ということですんでしまうんだ。
「ありがとうございました」
 ワコが言うと、カドキさんは白い歯をニッと見せた。

 その夜、ワコは『こゆびのかお』を呼び出した。
「ワコのことをわかってくれるおとなは、いるんだね」
「それはそうさ」
 『こゆびのかお』は笑っていた。


「みんな、わかろうとしているんだよ」


 ワコは、それはちょっと信じられなかった。
 おとなはいろんな人がいて、こどもたちの声をちゃんと聞こうとする人もいるけれど、聞こえないふりをする人もいる。おとな同士も仲のいい人とよくない人がいるみたいだと、ワコは思っていた。
「そんなこと、あたりまえだよ」
 『こゆびのかお』にそのことを話すと、別にふつうのこと、といいたげに、言葉が返ってきた。
「おとなだってこどもだって、いい人もいるし、いやな人もいるよ」
 そして『こゆびのかお』は、ワコに聞いた。
「ワコは、おとなはワコを可愛がってあたりまえ、と思っているでしょう」


「…うん」
「そして、ワコ自身は、職員の人の気持ちなんて興味ないし、自分には関係ないと思っているよね」
「……。」
「ちゃんと頼んだことをやってくれる人か、嫌がる人か、ワコの興味はそこだけだよね。……あたったかな」
「……。」


 なんだか、そわそわしてくるワコだった。
 あたり、だったから。


『こゆびのかお』のこういう、痛いところを突いてくるところは、ワコはどうしても好きになれない。

「誰にだって、ワコと同じように、感じる心があるんだよ。おとなもこどもも同じさ」
『こゆびのかお』は、ワコの表情におかまいなく、話してくる。
「悲しい思いもするし、調子の悪いときもある。でもおとなは、こどもをわかろうとしていることが多いと思うよ」
 きっと『こゆびのかお』はおとなだから、おとなの人たちの味方になっているんだ……。
 ワコは、そう思わずにいられなかった。

 もし、おもらしを見つけたおとながカナモトサンだったら、カドキさんが教えてくれたように教えてくれたのだろうか。
 ワコはとても気になる。
 こんなふうには解決しなかったかも知れない、と思ってしまう。

 カナモトサンは長く勤めている職員さんだ。
でも、身の回りのことが自分で出来ないこどもたちのなかでは、人気がない。ひいきをすると思われているから。
 実際、カナモトサンが着替え担当になると、おそるおそるお願いして、びくびくしながら着替えさせてもらうことになってしまう。

「カドキさんのことだって…」
『こゆびのかお』は、そんなワコの心を見透かしたようにいった。
「ワコは、今日の今日まで、どんな人なのか知らなかったくせに。ワコが興味があったのは、カドキさんの歯だけだったでしょう」
『こゆびのかお』は手厳しい。ときどき逃げたくなるほどに。

「親切にされたのがきっかけで、相手に興味を持つのもそれはそれだけれど……」
『こゆびのかお』はおかまいなしにしゃべり続ける。
「ちょっと近寄りたくないな、と思う人でも、よく見てみるといいかもよ。遠くからでいいからさ。いやだ、嫌いだ、と思ってばかりいないで、なんでその人はそういう人なのか、考えてみるの。せっかく狭い「ホーム」の中で毎日会うのだから、さ 」
「そんな難しいことをなんでいうの?」?
 ワコは少しすねて、はんぱつした。
「ワコはいちねんせいなんだよ、まだ」
「あら」
 こういう時、『こゆびのかお』はいたずらっ子のように、意地悪な声で言うのだ。
「お望みであればいつでも、あかちゃんらしくお話ししてあげましゅよ、ワコちゃーん」

 もう、いい。消えて。

ワコが願えば、『こゆびのかお』は消えて、ふつうの、顔のない指にもどる。
 でもいつも、消えながら最後までしゃべっていくのだけれども。
「カドキさん、なぜワコの気持ちをわかってくれたんだろうね……。ワコにはわかるかな」

 うーん、なぜだろう。
 こどもを育てたことがあるからかな。
 お孫さんもいらっしゃるのかも知れないな。
 あの時、なんだか、田舎のおばあちゃんに言われているみたいだったもの。
 
 ああ、そうか。もしかしたら、
 カドキさんにとって、ワコたちは、あまり特別なこどもではないのかも知れない。
「障がいのある『気の毒な』こども」ではなく、「障がいがある「ふつうの」こども」なのかも。
 お孫さんと同じように。


 だからふつうに教えてくれたのかも知れない。
お漏らししたことも、大げさにしないで、今度失敗しちゃったときのことを考えて教えてくれたんだ。

 カドキさんにとって、ワコたちはみんな、孫なんだよ、きっと。

 じゃあ、みんなが苦手なカナモトサンは?
 どう考えたらいいんだろう。

 そんなことを考えていたら、ワコはいつの間にか眠ってしまった。

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