あかりちゃん ワコのあるきかた6
切なくても生きる人
桜乃いちよう
あかりちゃんは、目尻のあがった大きな目が印象的な、人だった。
でも、ワコの友だち、とは言えなかった。
あまり会話はしていないし、あかりちゃんはワコに興味があるのかはわからなかったから。
ワコにとってあかりちゃんは、不思議な人だった。
両腕を後ろに回して、両手首を布の太い紐で縛っている。朝、身支度が終わると、必ず誰かに縛ってもらう。夜そのまま器用に眠ってしまうこともある。ごはんなどは後ろに回した手をこれも器用に使ってスプーンを持ったりしている。
調子のいいときは、肘あたりをゆるめに縛ってもらって、好きな料理雑誌をぱらぱらめくったり、お気に入りのお人形に語りかけてみたりしていた。
あかりちゃんは、手を後ろに縛っていないと、自分の顔をたたいてしまう。
膝を曲げて、手を膝にのせて、その手に頬をトン、トン、トン、トン、打ち付け、ひっきりなしにいじめてしまう。
だからあかりちゃんの頬はいつも傷が絶えない。
調子が悪いときは、額も、頬も、ようしゃなく自分で打つ。
手を縛ってもらうのは、彼女なりに考えた「身の守り方」のようだった。
「しばって。」
布の紐が緩くなってしまうと、あかりちゃんは、トン、トン、トン、トン、顔をたたきながら、かなしいようないらついているような、切ない声で誰かに向かって叫んでいた。
「しばって、しばって」
その声を聞くと、誰かがサッと来て、あかりちゃんの手を縛りなおす。
ワコはその先は知らない。
「でも、あかりちゃんのほっぺが、きれいになるときがあるんだ」
ワコはある夜、『こゆびのかお』を呼び出して話していた。
「どんなとき?」
「『いえ』からもどってきたとき」
「ホーム」で暮らす子は、年に三回「いえ」に帰ることができる。夏と冬と春。その時間、家族のある子は「ホーム」の生活を忘れて、家族との時間を満喫する。
「『いえ』にかえると、なぜあんなにきれいに、かおのきずが、なおるのだろうね?」
「そうだね……。」
「そんなにながく『いえ』にはいられないのに。」
『こゆびのかお』は、少し考えるようにだまっていたが、やがてつぶやいた。
「かあさんだね」
「えっ」
「あかりちゃんへのかあさんの思いさ」
あかりちゃんのかあさんの思いって、どういう意味だろう。
「きっとあかりちゃんは、『いえ』で暮らしている間は、大事に大事にされているんだと思うよ。」
『こゆびのかお』は、たんたんとワコに話す。
ワコはだんだんイライラしてくる。
「だったら…だったら…」
「言いたいことはわかるよ、ワコちゃん」
『こゆびのかお』は妙に冷静だった。
「あかりちゃんは、いつも家族のそばでは暮らせない。」
そして続けた。
「あなたがそうであるように」
ワコは、『こゆびのかお』の言葉に目を見開いた。
「なぜ、いま、わたしにそんなことをいうの」
ワコは、泣きそうな声になった。
『こゆびのかお』は、小さな声で、でもはっきり言った。
「あなたが一番叶えたいことでしょう。そして一番叶わないこと」
そう。ワコの一番の願いは、叶えられない。
そして一番、ワコが知りたかったことは、ほんとうはあかりちゃんのことではなくて、
なぜ、ワコは「いえ」に帰ってはいけないのか、ということ。
「あかりちゃんと一緒に暮らすには、おかあさんもおとうさんも必死で毎日彼女と向きあわなければいけないのよ。ごはんもトイレも、着替えも、そして意思表示も、あかりちゃんは思うようにできないんだもの。そういうこどもと一緒に生活していくには、おかあさんにもおとうさんにも、かなりの覚悟が必要なの」
ワコには『こゆびのかお』の言葉がうまく理解できなかった。今なぜこんな話をするのかさえわからなかった。
それって、ワコのことでもあるということなの?
だから今話しているの?
「地域の学校も受け入れてくれないのに。親せきももしかしたら受け入れてくれていないかも知れないし。覚悟がどれくらい必要なのかわからないのに。だから、離れることを選んだ。としたら?」
この言葉は、ワコの心に刺さった。
「そうやって、人はいろんなことを選んでいくの。自分の心と相談をして、自分の感情を感じて」
『こゆびのかお』は、いつもわかったふうにワコにぶつけてくる。
言葉をきいていると、何も言えなくなる。泣きそうになる。
でも、なぜだろう。
ワコはいつも『こゆびのかお』のことばを、最後まで聞いてしまう。
とても聞きづらい内容なのに。なぜか最後まで聞いてしまう。
なぜそんなことができるのか、ワコにはわからない。
「あのね」
ワコは言ってみた。
「あかりちゃんは、おかあさんがだいすきなのよ」
「そうね、ワコ。知っているよ」
ワコの心の中に、切ない思いがさらにさらに広がった。
あかりちゃんは、顔をやさしくやさしく拭いてくれるおかあさんが大好き
お風呂で体をきれいにしてくれて、傷口に薬をつけて、抱きしめてくれるおかあさんが大好き。
いつも一緒にいたい。
でも、いつも「ホーム」に帰ってきてしまう。
「あかりちゃんは、おかあさんといつもいっしょにいたいから、かおをトントンしちゃうのよ」
『こゆびのかお』は、だまってワコの言葉を聞いていた。
「むかえにきてほしいから…。だから…。」
「ワコの想像が合っているとして」
『こゆびのかお』は静かに話し始めた。
「そしておかあさんもその思いが充分わかっているとしても、叶わないことはあるの」
こどものワコには、わからない思いだった。わかりたくなかった。
「叶えられないことはあるのよ。お互いが生きていくために」
『小さな母』の話はどこまでもきびしく、ワコの中に入っていく。
「ワコちゃんにはまだ難しいかも知れないけれど、人は、生きる覚悟というものを、どうつけていいか、迷いながらつけていくの」
ききたくないのに、『こゆびのかお』の言葉はいつも、ワコの胸の奥まで入り込んでいく。なぜかはわからないけれど、ワコは聞こえないふりが出来ない。
今、聞いておかなくては、と、そんな気にもなってしまう。
「あかりちゃんのおかあさんは、あかりちゃんを愛しているから、あえて離れることを選んだんだわ。多くの人に支えられて生きていく方が、あかりちゃんに可能性があるのではないかと思ったのかも知れない」
「なぜ?」
「家族の中で、いろんな感情の中で生きていくよりも、お互いに離れた方が、うまく生きられると思ったのかも知れない。それがおかあさんの覚悟なのよ」
「でも、それは、そうぞうのなかのはなしだよね」
「…そうよ」
「ワコたちのそうぞうは、みんなみんな、まちがっているのかもしれない。ワコたちは、あかりちゃんのお母さんじゃないから」
「うん、そうね、ワコ」
何がまちがっていて、何が正しいかなんて、誰にも決められない、
と『こゆびのかお』はいいたかった。
けれど、その場では口にしなかった。
『こゆびのかお』には、実はもっとわかっていることもあった。
ワコがまだ、ただがむしゃらに『いえ』に帰りたがっている、ということ。
そのそばで、ワコは、あかりちゃんの本当の思いを考えていた。
ワコが今大事にしたい事実は、「いえ」から帰ってくるとあかりちゃんの顔の傷はなおっている、ということ。
話しかけても、あかりちゃんは、まとを得た答え方はしてくれない人だ。
大切なことは、想像すること。
合っているかどうかは、わからないけれど。
答えは誰にも聴かなくていいのかも知れない。
考えながら、ワコの心に、なんとなく、そんな気持ちもわいた。
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