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ごはんをしぼって  ワコのあるきかた7

 ーー言葉の意味を理解されなくても 生きていくーー

                 桜乃いちよう


 しんちゃんのごはんの食べ方は独特だった。
 ひと口分のごはんをスプーンにのせて、もう片方の手のひらできゅっとごはんをしぼる。するとごはんはスプーンのなかで、小さなおにぎりのようになる。
 しんちゃんはそれをとてもおいしそうに食べる。
 ワコはいつも、その様子をかたわらで見ていて、
「ごはんはああやってたべるとすごくおいしくなるんだ」
 と思っていた。
 ワコは、両手を器用に動かして、ごはんを器用においしくできるしんちゃんが、実は少しうらやましかった。
ワコの右手は、ワコの言う通りには動かない。
左手も、スプーンはもてるけれど、おはしは使えない。

「しんちゃんのようにごはんをたべてみたい」
『こゆびのかお』出現したとき、そう話してみた。
『こゆびのかお』は、けげんそうな顔をした。
「ごはんをしぼって食べるなんて、そんなにおいしくないと思うよ」
「でも、やってみたい」
「ワコにはちょっと無理。しんちゃんのような絶妙な力加減は、ワコの右手にはのぞめない」
 確かにワコの手は妙に力が入ってしまって、加減という言葉を知らない。


 ワコの他愛ない夢は、叶わないらしい。

 ある日、しんちゃんの名字が、変わった。
 突然だった。
 でもしんちゃんは相変わらず、ひょうひょうと歩き、なにもしゃべらず、食事の時だけ楽しそうにごはんをしぼって食べていた。
 しんちゃんに対してのワコの興味は、ごはんの食べ方だけだった。ごはんの上に苦い粉薬をかけられようが、しんちゃんは本当においしそうにごはんをしぼって食べるから。
 きっとあの食べ方は、薬さえも苦くなくなるのかも知れなかった。

 ある日、しんちゃんが大泣きした。
 ごはんがおかゆになって、うまくしぼれなくなったのだ。
 おなかをこわしていることがわかって、なおるまでの間、しんちゃんの分だけおかゆのごはんが配膳されるようになったのだ。
 しんちゃんは泣いて泣いて、ごはんをあまり食べなかった。
 でもそれがよかったのか、おなかはすぐよくなったらしかった。

 名字が変わってから、面会日によく来ていたしんちゃんのおとうさんが、姿を見せなくなった。
 おなかをこわして、泣きながらごはんを食べたしんちゃんのかなしそうな様子も、面会に来ていないのでおとうさんは知らなないんだろうな……。
ワコはなんとなくそんなことを思ったりした。

 面会日は月二回。
「ホーム」で暮らす多くのこどもたちにとって、あっという間に過ぎていく魔法の時間だ。
 でもすべてのこどもにとってではない。
 家族が誰も会いに来ない子は必ずいる。

 ワコはいつもとても恵まれていて、月二回のこの日には必ず家族が会いに来てくれた。
 ワコの家族が来てくれる時間はたいてい午前中で、お昼ごはんの時間が来ると、
「また来るから」
 といって家族はワコの手を振って帰っていった。
 面会日には、いつもベッドカバーや布団カバーをかあさんが取り替えてくれた。なのでワコはいつもきれいなベッドで生活することができた。

 親がいつも来ない子は、それがなれているかのように、面会日も元気に遊んでいた。それは誰にとっても見慣れた光景で、特別だれも気を遣うこともなかった。

 しんちゃんは面会日になるといつも、おとうさんとよく、「ホーム」の中を歩いていた。
 手をつないで歩いていた。
 背が高く、おもながの顔をしたおとうさんは、しんちゃんとよく似た目をしていた。黒縁のめがねが印象的だった。

 面会日に来なくなると言うことは、どういうことなのだろう。
 しんちゃんの名字が変わるということは、どういうことなのだろう。
 しんちゃんのおとうさんは、もうしんちゃんの手をつなぎに来ないということなのだろうか。
 ワコはある夜、『こゆびのかお』を呼び出した。
 しんちゃんのことを話したかった。


 面会日に誰のおとうさんが来るとか来たとか、おかあさんが来るとか来たとか、あまり友だちとは話したくなかった。
 そんな話題は、話さないほうがいい。ワコはそれとなくそう思っていたから。

「もうしんちゃんのおとうさんは来ないの?」
「わからない」
 『こゆびのかお』はいった。
「しんちゃんは、どうおもっているんだろう」
 ワコがつぶやくと、『こゆびのかお』が聞いた。
「ワコだったら、どう思うの」
「それは、かなしいよ。会いたいよ。会いに行きたいよ。」


 もし面会日に誰も来なかったら、誰も、来なかったら。
 そんなこと、ワコには耐えられない。
 ワコから会いに行けないのはわかっているけれど、どうにか会いたいと思ってしまうだろう。

でも、誰も会いに来ないのに、平気な顔をして、生活している人たちがいる。
 年上の人も、ワコより下の子も。
 親が会いに来ない子は、強い気持ちで生きているんだろうか。
それとも、ワコと同じように、寂しくなる気持ちを抱えて、それを隠しながら生きているのだろうか。


 なんだか、いろんなことを考えていくと、面会日に誰かが会いに来ることが申し訳なく思えてくる。
 がまんしている子もいるのに。
 ワコの心はどんどん先を行く。
「たぶん、しんちゃんも、会いたいって感じているよ。ただ、まわりの人にわかるように表現できないだけ」
 ワコは『こゆびのかお』にそんなふうに話してみた。あまり心はすっきりしなかった。

 しんちゃんは、おとうさんの来なくなった面会日も、ひょうひょうと歩いて、静かに過ごしていた。

 ある日。突然。
来なくなったはずの、しんちゃんのおとうさんが、「ホーム」にやってきた。
 そして。
しんちゃんは、おとうさんに連れられて、「ホーム」を退園していった。
 ワコが見たしんちゃんの涙は、おなかをこわしたしんちゃんがごはんが絞れなくなった、あの日だけになった。

 相変わらずワコは、しばらくたっても、「ホーム」を出て行ったしんちゃんが、ただひたすらうらやましかった。
「そんなにしんちゃんがうらやましいの」
 『こゆびのかお』に聞かれたけれど、ワコは答えなかった。
「家に帰ったからって、いいとは限らないし。しんちゃんだって、ずっと家で暮らせるかどうかわからないのに」
「ほんとにゆめがないのね」
 ワコは、『こゆびのかお』にめずらしくたてついた。
「それに、なんだか冷たいし」


 『こゆびのかお』は黙って聞いている。
「しんちゃんが、ずっと、おとうさんと、しあわせに暮らせることを、ワコが願ったっていいじゃない」
 ……そうよ。そしてそのことを、ワコが少しぐらい、うらやましく思ったっていいじゃない。
 しんちゃんが、すぐに別の「ホーム」に入ることぐらい、ワコだってわかっているんだから。


「しんちゃんの名字、元に戻ったみたいだね」
 『こゆびのかお』は、そんなことをぼそっと言った。
「しんちゃん、どこに行っても、好きな風にごはんを食べられるといいな」
 『こゆびのかお』は、まるでしんちゃんの友だちのように、しんちゃんのごはんのことを心配していた。
そしてゆっくり、ワコの小指からみえなくなった。
 

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