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正しい使用法

八正道という教えが、仏教にはあります。
これは、下記の八個の正しい行いをする事で、涅槃を獲られるとされています。
ただ、私には涅槃自体がふんわりしており、よく分かりませんので勝手に「気付きの暮らし」と定義し、考える様にしています。
(正見)正しい見解(正思)正しい思考(正語)正しい言語(正業)正しい行為 (正命)正しい生活(正精進)正しい努力(正念)正しい想念(正定)正しい精神統一
総てに「正」という言葉が頭に付きます。
そして正しいという意味を私は、浄土三部経の中にある「唯除五逆」という言葉を軸に考えています。
この言葉は、殺(父・母・羅漢)傷(仏)破(僧伽)を意味し、
「殺 父・母・羅漢」は他人に対する姿勢
「傷 仏」は自己との向き合い方
「破 僧伽」は社会との付き合い方
と私は訳しています。
仏教は、お釈迦様の遺された言葉が中心にあります。
それに沿う形で物事を考えますが、絶対的な信仰対象としてお釈迦様を見るよりも、どちらかと言えば考察対象として捉えられる場合の方が、多くあるようにも感じます。
また、私の様に、「自分らしく生きる事を大切にする」のが仏教だという考え方も許されますし、先祖供養が仏教だという考え方など、多種多様な考え方が混在する宗教でもあります。
それだけに、仏教で学び、考えた事をどう使うかという、「正使用」という事が大切になってくると思います。
歴史を遡れば、多くの犠牲を払ってきた側面も宗教にはあるので、慎重になるべきとも考えています。
釈迦の言葉を知っているという事と、分かっているという事、そして出来ているという事は総て違うという事を、きちんと整理し理解すべきたと思います。
簡単に表現すれば、知識量の問題ではなく、行動の大切さが求められます。
極端な例ですが、法律の知識を獲る事で、逮捕されない限界まで、反社会的活動をする人もいます。
片や、同じ法律の知識を使い、他者をいたわる救済活動をする人もいます。
どれだけお釈迦様の言葉を知り、理解していたとしても、知識だけでは意味はなく、「どう生きるか」という行動が重要になってきます。
私自身がどうかと訊かれれば、残念ながら怪しい部分が、多々あると思います。
言い訳の様になりますが、大切な事は、行動が伴わない事はではありません。
伴っていない自分に「気が付いている」か、そんな自分と「どう向き合う」かが、本当に大切な事だと思います。
「悪人正機」という言葉を時々用いますが、悪人とは気付きの機会に恵まれている存在です。
気付きの機会があるという事は、先に書いたように、涅槃に近い存在という事だと思います。
見直すと言う言葉があります。
自らの知識や経験をどの様に使用しているか。
そして、それらを正しく使用できているかの、見直しを時々行う事が、とても大切だと思います。
もしかしたら、その見直しの時間を「お仏事」と呼ぶのかもしれません。
合掌

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