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~第95回 ~「鷹つれづれ」

江戸幕府の将軍は鷹狩りを好み、江戸を中心に5里(約20km)を公儀鷹場とし、後にはその外側10里以内(約40km)を御三家の鷹場に設定していました。

徳川御三家の一つ・紀伊徳川家の鷹場は、武州足立郡のうち、指扇・大宮・木崎・南部・平方・植田谷・小室・赤山・岩槻・与野・桶川・浦和・大谷にわたる地域にあり、「生類憐みの令」による中止期間を除いて幕末まで続きました。

なお当時、現地で鷹場管理を担う「鳥見役」という仕事がありました。
紀伊家鷹場は慶安年間(1648~52)になると、星野権兵衛(浦和宿)・松本孫右衛門(大宮宿)・八木橋七兵衛(深作村)・会田平左衛門(大門宿)などといった有力農民が公儀鳥見に代わって紀伊家鳥見に任じられ、苗字帯刀の許可と扶持を与えられました。
つまり、紀伊家鷹場の鳥見は藩の家臣からではなく、鷹場内の地域の有力農民が抜擢されたのです。
最終的には星野・八木橋・会田・蓮見・松本・北沢・林・小沢の8名が鳥見役として務めていた記録があります。

そのような紀州鷹場ですが、紀伊徳川家では「大宮鷹場」と呼び、鳥見役も「大宮御鳥見」と称されていました。
大宮という名称が当時も浸透していたことが伺えます。

当時の様子を今に伝える文書のひとつに『会田家文書』があります。
その内容の大半が享保期(1716~36)以降のもので、当時の大門宿や紀伊徳川家の鷹場などを知る上で貴重な文書です。

このほか鷹場に関わる記録として、当時、神主家の一つであった氷川内記が紀州鷹場内での殺生を理由に延宝7年(1679)に神職を追放されたという記録もあります。
この氷川内記は12月10日の「大湯祭」にも関わりがあり、『大宮市史』第3巻中に、延宝4年(1676)、氷川内記がに古来の火剣祭を清祓の儀に改定したとあります。

江戸時代の記録から、氷川神社の活動始め、地域との関わりや地域の様子が伝わってきますね。

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〔 Word : Keiko Yamasaki Photo : Hiroyuki Kudoh 〕

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