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展覧会「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」は何を自問する?/一日一微発見437

国立西洋美館65年目にして初めての「現代美術」展を見に行く。
最初に感想めいたものを言うならば、よくできたキュレーションであり、しっかりとした見ごたえがある。しかし同時に多くの「現代美術家」をまきこみながらも、あたりまえの自問自答におちいっている展覧会ではないか。

問題設定がどうなのか、という根本的な疑問を感じた。
キュレーションの意図は明解である。

「中世から二十世紀前半までの西洋美術のみを収蔵/保存/展示している国立西洋美術館には、いわゆる「現代美術」は存在しません。そこには基本的に、すでに死者になって久しい遠き異邦の芸術家らが残した産物が集まっている空間です。この展覧会ではしかし、そんな国立西洋美術館へと、こんにちの日本に生きる実験的なアーティストの作品群一故人のものも含みますがーをはじめて大々的に招き入れます」
「国立西洋美術館やそのコレクションが、生きているアーティストをいかに触発しうるか」を検証しようというわけである。

展覧会場に入るや、西洋美術史の逸品たちと現代美術家のさまざまな応答が次々に出現する(あまりの情熱的キュレーションのせいか、展示空間は、ぱつぱつ、ぎゅうぎゅうであるのだが)。
各部屋には、国立西洋美術館からの問題意識 のステートメントがナレーションのように綴られていく。どの部屋も見ごたえ満点で、参加している「現代美術家」たちの問題意識とアプローチの 鋭さは刺激的だ。
途中では、この展覧会が「国立西洋美術館」ないし「西洋美術史」という主語性でできていることをわすれて、各細部に入りこんでしまう。

しかし、先まわりして言えば、第7章に来て「しらけて」しまった。第7室のステイトメントはこう始まっていたからだ。
「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?ーこの問いには結果として‘’Yes‘’とは答えづらいものがある。」と。
はあ? まあ確かに自作(自策)自演的なキュレーションは、初めからわかっていることとは言え、この物言いは、いかがなものか。
「言わずもがな」いや、「ひらきなおり」。
いや、「いいわけ」展か。

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