空席(短編小説)


 電車に乗る。歩き疲れているから座りたい。
 空いている席——ある。ひとつだけ。でもそこには幽霊が座っているかもしれないと考える。
 昔、聞いたことがある。
「どこにでも、時々ぽっかりとひとつだけ席が空いていることがあるでしょう? そこにはね、幽霊が座っているんだよ。だから誰も近寄らないの」
 とアキちゃんがだれかに言っていた。
 今もそんなことを言ったりするのかなあ?と、電車の中でぽっかり空いた席を見るといつもアキちゃんのことを思い出す。でも高校を卒業して以来一度も会っていないから、もう顔はよく思い出せないでいる。
「幽霊さん、失礼します」
 と心の中で断りを入れてから座った、と知ったら横の人はどう思うだろう? と思ってちらっと横を見てみると、スマホに夢中で、隣の人の心の中にはまったく興味がなさそうだった。でも人の気配は感じるみたい。「んんっ」と咳払いみたいなことをしたあとに、少し腰を浮かせて座り直した。
 男性、三十代後半〜四十代半ばと予想。
 会社の帰りかな? と思う。スーツを着ているし、きちんとネクタイをしているし、そんな時間でもあるし、それからこの人はほのかに甘い柔軟剤の香りを漂わせている。
 きっと可愛らしい奥さんと天使のように愛らしい双子の娘たちがいて、その人達は家で同じ甘い香りを漂わせながらこの人の帰りを待っている、とハウスメーカーのCMみたいな妄想をする。
 次は、反対側。
 こちらはスマホをのぞきこんではいないけど、電車のガタンゴトンに合わせて頭がぐらぐら揺れている。それから薄目——というより虚ろ? すごくお疲れ模様で今にも寝てしまいそうなので、きっと隣の人が幽霊の上に座っていることには気づいていない。
 女子高生、学校帰りに友達とスタバでおしゃべりしてきた帰り道と予想する。
 新作、飲んだ? と心の中で呼びかけてみる。
 ストロベリーメリークリームフラペチーノ、噛まずに言えた? とたずねてみたあとに、誤ってストロメリーと言ってしまわなかった? と訊いてみるけど、もちろん応答はない。
 女子高生の膝の上には大きなリュックが乗せられている。そのリュックにはちいかわのぬいぐるみがつけられていて、ガタンゴトンに合わせて頭といっしょに揺れている。
 高校って時々地獄に感じない? と最後に訊いてみる。女子高生の頭がガクンと縦に揺れたのを見て、一方的な心の会話を終わらせた。
 次は、目の前の人。
 女性、会社帰りの三十代前半と予想する。
 スマホを見つめて、たぶんヤフーニュースで戦争のニュースを読んでいる。肩を落として、小さくため息を吐く。戦争に胸を痛めたことをきっと家に帰れば忘れてしまう、という自分のことを責めているかもしれないと考えて、「みんなそうかもしれないですよ…」と念を送った。
 そんな何も慰めにならないことをした後は、すこし落ち込む。
 だめだ、寝よう。
 隣の人に寄りかからないように気をつける。
 この長い髪はだれ? とスーツに付着した抜け毛で奥さんにあらぬ心配をかけてしまえば双子が泣いてしまうから。
 ゴン! とぐらぐらした頭とぐらぐらした頭がぶつかり合えば、その弾みでストラップは外れてしまい、ちいかわはどこかに行ってしまうかも。
 気をつけよう。まるで自分なんて存在していないかのごとく気配を消そう。

 ——あれ、幽霊? あの人、生きてる? 

 うとうとしていると、アキちゃんがだれかにひそひそ話す懐かしい声が聴こえた気がした。
 でもやっぱり顔はよく思い出せなくて、良かったな、とほっとする。思い出したくないから。
 見えているのに見えていないふりをして、アキちゃんはきっと笑っていると思うから。

 (了)


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