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短編小説/そんな日

 メレに憧れていた。なぜならメレは認めない…たとえばメレが駅のホームで鼻血を垂らしていたとして、それでもメレはこころのねじくれを認めない。悲しまない。その感情は認めたくない。受け入れたくない。彼氏に実は四股されていたと知った夜も、メレはひとりで踊る。もちろん泥酔、床に転がるウイスキーボトルを踏んで転げて、メレは忌々しいそのウイスキーボトルにエンドオブザワールドディライト(ヴォネガットの猫のゆりかごが見えたから)と名付けてから昔の恋人に電話する。あわよくば家に呼ぶ。寒々しくて痛々しい、それは認めた。そして母親に嫌われていることもメレは認める。夢はみるだけの凡人であることも、友人に裏切られた経験があることも、彼氏が大嘘つきであることもきっぱり認め、その大嘘つきが棺の中で青白い顔をして目を閉じる姿をなぜかふと想像した夜に涙をこぼし、その時だけは例外的に悲しみを受け入れていたことがあることも、つまり大嘘つきをとても愛してしまっていたということも認める、ううん、実のところはいまもだいすき。でももう会わない。あの人は死人とすると心に決める。だからメレは悲しまない。その感情は認めない。わたしは悲しんでなんかいないのだ。陽気に踊ることもできるし涙が頬を伝っているのはケタケタ笑いすぎているからだ。
 という物語の主人公に憧れていたのだけど、彼女とすこし距離を置こうと思ったのは、彼女が母親のお葬式中に参列者の前で突然踊り出したからだった。そのときわたしは、え、メレ…となってしまい、ぱたっと本を閉じた。その理由は上手く説明できない。本の表紙をひとさし指でかりかり穿る、けれど、はっきりとわからない。でもメレを嫌いになったということは断じてない。好き。でも、なんというか、メレ、どうしてみんなの前で踊ったの、その悲しみとか痛々しさは読者にしか見せないのがメレなのに、わたしたち(というのは十巻まで読んだすべての読者)にはその突然の踊りを理解できるけど、悲しみが深すぎたんだねメレ…とわかるけど、たぶんそこにいる人たちはその歪みを理解してくれなくて……、あの、作者の方、メレをどうするつもりですか…ということですこし距離を置くことにした。
 それが数日前のことであり、今日のわたしは駅のホームで鼻血を啜り、世界から嫌われている地球に馬鹿にされていると悲しんでいる。ほんとうはそんな戯言をいいたくも悲しみたくもなくて、けれど、メレだって人前で踊っちゃったんだからわたしだって人前で悲しんじゃってもべつにいいじゃん、というような不貞腐れた態度である。
 でも、なにがあったのかは話せない。なぜならだれもそんなことに興味がないし、興味があるよともし言われてしまえば朝まで話を聞いてもらうことになりそうで、だから、会社でイジメられたのかな、彼氏にフラれたのかな、そこそこ自信を持ってSNSにポストした卑猥な詩に一件もいいねが付かなかったのかな、『センスなーい、チネ』とコメントがあったのかな、飼っている文鳥の具合でも悪いのかしら、と好きに想像してもらえればよくて、ただ、人前で垂らしている鼻血に関してだけは事実を語りたい。それはほんの少し前、仕事帰りに駅の階段ですれ違った学生の竹刀が顔に直撃して、「大丈夫ですか?」「はい、だ、だいじょ…ぅ…です」という会話の一分後から鼻血が止まらない。それだけのこと。それだけのことが厄日の決定的な一撃となり、要するにとどめを刺されましたと悲劇のヒロインしているわけだけど、でも学生に落ち度はなかった。わたしの反射神経の鈍さが生んだ悲劇といえるし、ただタイミングが悪かったとは思っていて、でも落ち度があるのはいつも自分、嫌な奴、そろそろ人間やめたほうがいいのかな…とハンカチに付着した血液がうるうる滲んで見えるくらいには疲れている。
「大丈夫ですか?」
 と肩をぽんっと叩かれて、顔を上げると駅員さんがいた。
「大丈夫ですけど、恥ずかしいです」とわたしは答えて、「あ、飛び込みません」とも慌てて言うのは、駅員さんがそんなつもりがありそうだと眉をひそめてわたしを見ているからで。
「血が止まってから電車に乗ろうと思って…」
「じゃあ救護室に…」
「いえ大丈夫です。自力で止めます」
「いやそれ自力でいけるかな? そんなに血だらけでふらふらしませんか?」
 と言われてみるとふらふらしてきたので、駅員さんに誘導されるがままホームの椅子に座る、というより倒れる。と救急車を呼んでほしいような大袈裟な気にもなってきて、「大丈夫…?」と駅員さんは眉をひそめつづけていて、それはたぶんわたしの顔があらゆるもので濡れているからで。
「ん?」と駅員さんがわたしの顔を覗き込んでくる。
「そんなつもりありません…」とわたしはふるえて答えて、すると、
「おなかへってる?」と駅員さんはポケットから飴を取り出して、わたしの考察によるとその飴は「と、とりあえず落ち着け」というメッセージが含まれているので、とりあえず受け取り、とりあえず口に含む。舌で転がす。と蜂蜜の味がして、鼻から流れてくる鉄に占領されていた不愉快な口のなかいっぱいに、今度は蜂蜜のやわらかいあまみがとろけるように広がっていき、
「甘くて美味しいです」
 と伝えようと思った。でも鼻血か鼻水かもうよくわからない液体を啜って、「そんなつもりありません」と気づけばわたしは何度も言葉にしている。駅員さんは、うんうん、と何度も頷いてくれている。実際のところ自分にそんなつもりがあったとは思えないけれど、確かに今日は辛い日で、そういえば昨日と先週のあの日も悲しくて、それにメレだって…メレにだって悲しみを隠しきれない日があるのだとふと受け入れる。あのメレにもひとりきりで踊れない日がある、そんなことは当然むしろひとりじゃないほうがいいよお葬式で踊るのは変だけど、、みんな変だよ、と涙が出る。
「もうひとつたべる?」
 と駅員さんの声がした。きっとわたしが飴をがりがり噛み砕いているから気を遣ってくれた。優しい。遠慮せずにもらおう。受け取った。
「鼻血みたいな日もあるからね」と駅員さんが言う。
「はい」とわたしは答えて、救護室に連れて行かれる。ティッシュをたくさん詰めてもらう。お礼を伝えて帰ろうと立ち上がってみるとふらつきが酷くて、結局わたしはタクシーで帰ることにして「どちらまで?」と運転手さんに尋ねられ、「おうちまでです」「いやきみのおうち知らんがな」ああそっか、ハハハ、という愉快な一幕もあり、すこしだけ元気になって帰路に就く。
 そして帰宅後、メレは…。メレはお葬式で踊ってしまったことによって、新しい彼氏が出来ていた。メレの奇行ともいえるその悲しみ方を見て、『きみが気になる』とまるで珍獣でもみるかのように興味本位で近づいてきた、もはや素敵ともいえるその人と結ばれるラストまで、わたしは夕食をパスして一気に読み、憧れた。メレは新境地に辿り着いた。悲しまないというよりめげないにしてみるかと思いついたらしくて、それから、新しい彼氏と母音のみで会話することにした。それはどうやら、『母音のみで飼い猫にことばが通じるか?』という動画を見てメレは癒されたようで、「おあうあえうおやつたべる?」ときくと、「うみゃあ」と愛らしく反応し、ご褒美のおやつをぺろぺろ舐めて、「ういあお」と尾骶骨あたりをくりくり撫でると、飼い猫はとろりとした素振りを見せるんだよ、とメレがクスッと新彼氏に妖しげな笑みを浮かべたところで十巻は幕を閉じ、おもしろそう、次巻、えおいいい? とわたしは思い、とりあえず檸檬堂、お風呂、そんな日おあう、めげない、あいあおう、と眠って、蜂蜜みたいな夢をみた。

(了)

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