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第1回 「ヘタウマ生活曼荼羅」振り返りミーティング & 今後の展望

(写真:今朝のマツイ宅のデスク上)

はーい、こんにちは!shuseimatsuiです。
みなさん、今日も無事ですか?僕はなんとか無事です。今日も世の中や、自分に降りかかって来るあれやこれが憎いですが、なんとかやっています。みなさんもどうか無事でいましょうね!

今日の原稿は、「第1回 「ヘタウマ生活曼荼羅」振り返りミーティング & 今後の展望」と題しました。何をやるかというと、これまでの拙文集(あえてそう名付けましょう)である「ヘタウマ生活曼荼羅」の1度目の振り返りです。そして最後に、今後の展望を示す予定です。

なぜこのようなことをやるか、というと、多かれ少なかれ、見切り発車的にスタートしたこの散文集であっても、定期的にここまで辿ってきた道のりやそれによる結果を、振り返って分析することは大切であるように思われるからです。

昨日、ラジオを聴いていたら、ある政治学者が、「今の日本政治は振り返らない、総括しない」という論を語っていました。マツイの解釈によれば、政策が打ち出されるばかりで、それが顧みられることがなく、政策立案→実行が、自己目的化してしまっている、とその学者は語っていました。私も全くその通りだなと思いました。あの布マスクとか、10万円のバラマキとか、GOTOとか、「新しい資本主義」とか、世間を賑わせた政策の数々は、通過していっただけのキャンペーンのようになってしまっているように感じられます(あくまでマツイの見立てです)。
(注:加えて同席していたモリタクさん(森永卓郎氏のことです)が、「今の政治には教養がない」と指摘されていました。これもタイヘン挑戦的な言い振りで、かつ、魅力的なテーマですが、またの機会に考えるとしましょう)

そんな「振り返り」の議論を聞いていると、これは何も政治に限った話ではない、これを敷衍して、生活においても「振り返り」が必要ではないか、と私は思うようになりました。

というわけで、ここまでのshuseimatsui および「ヘタウマ生活曼荼羅」を、振り返るのを、本稿の目的としたいと思います。そして、これを原稿として読者のみなさんに公開するという行為を意識して、これには「振り返りミーティング」という名前をつけました。なので、みなさんも参加者です(任意)。何かご意見がありましたら、松井までご連絡いただける権利があります。参加したくなければ、読まなくてもOKです。気楽にいきましょう。その方が僕もやってて楽しいし、良いモノができるのではないかという予感があるのです。それでは、いってみましょう。

「定量的」振り返り:フォロワー数、ビュー数、「スキ」など

まずは、「嘘をつかない」数字くんを中心に、「ヘタウマ生活曼荼羅」の評価を定量的に分析します。僕は、この「定量分析」というのがあまり好きではないです。が、社会との接点をもつ試みである以上、多少はしょうがないなと思ってやります。

定量的指標
フォロワー数:24名  

まずは、フォロワー数です。2024/8/28時点でのフォロワー数は、24人です。
24名のフォロワーのみなさん、ありがとうございます。みなさんは、松井読者の中の最古参グループです。経営学的に言えば、「イノベーター」です。社会を変えるアクションを、ともに目指していきましょう!(半分、冗談)

全体ビュー:1,715 コメント:0件 スキ:81

この数字に関しては、僕の予想を大きく超えるものとなっています。正直この試みを始めた時は、自分でも「誰が読むねん!」と思ったし、読んでくれる方がいらっしゃったとしても、せいぜい気心の知れた友人程度だろうと考えていました。もともと自分自身の理解のために始めた節があり、だけれども、自分の中に留めておくのは寂しい、と、初回の原稿に書きました。今でもその意識は変わりません。ですが、誰も読んでくれないだろうと言う見立てが寂しすぎて、僕は自分の母に一番最初に原稿の場所を共有しました。

そんな予想とは裏腹に、久しく連絡のなかった友人や、会ったこともない人が、僕の原稿を読んで、「スキ」を押してくださっています。これは、ちょっと、信じられないことです。感動しています。そのような方々のプロフィールは、逐一拝見させていただいておりますが、実に多様なバックグラウンドを持っておられることにもまた、驚嘆しております(研究者、書店のオーナー、お笑い芸人、芸術家、エンジニアなどなど)。僕の試みが、あらゆる枠を超えて広がっていくこと、また、多様なみなさんと繋がることを、ずっと夢見てきました。リアクション、応答をくださるみなさん、本当にありがとうございます。

僕はこの試みについて、今のままでも十分満足していますが、これを持続可能な形でもっと広げていきたいと考えています。つまり、簡単に言えば、より多くの読者を獲得したいということです。そうすれば、より大きく、深い喜びを得られると思うからです。

一方で、闇雲に読者を獲得しようと、電車内の掲示広告や、インスタのストーリーに流れてくる、見たくもない広告戦略のような手法は、採用しません。インプレ稼ぎみたいなことは、断じてやりたくありません。私はみなさんに何かを強要したくないのです。指導したり、説教をしたいのではないのです。できるだけ対等な関係性において、また、同じ地平でものを考えたい。参加しても、しなくてもよいのです。それをある人物は「盆踊り的」と表現していましたが、「ヘタウマ生活曼荼羅」も「盆踊り的」実践でありたいと考えています。

記事別分析
ちなみに、記事別のビュー数、スキ数は以下の通りです。

(注:以前、「『スマホで稼げる』は、本当なのか、実験してみる」という記事を書きましたが、今日時点では公開を停止しています。普段生活していて、あまりにもそういう類の広告が横行している現状に辟易し、僕は、それに極めて懐疑的にならざるを得ないが、実際にやってみたらどうなるのか、という実験のつもりでした。が、疲れるし、やってて面白くないのでやめました。他に追求すべき問題があると考えています。もしも、リクエストがあったらまたやるかも)

現在のところ、「お前の一番言いたいことをあらわす原稿はどれだ?」と問われたら、「生きてることに遠慮なんてしねえよ」を選びます。ツイッターには、僕にもしものことがあれば、これを遺作にしてくれ、と書きました。今もその思いは変わりません。なので、僕の意思通りの結果にはなっていると言って良い。

が、これは共感をよべるんじゃないか、とか、これをわかってほしい!というコンテンツは、やや伸びを欠いています。たとえば プレイリスト「親密さ」とか、ZAZYさんとの2ショット「芸術家とわたしの接点」など。ブランクーシ「接吻」も、「愛で僕は」も、「カネコアヤノのライブ音源」も、「ZAZY」も最高なのになあ、、、。ちょっと気になった人は、ぜひ帰りに寄り道してくださいね。

まあ、いったん数字くんの分析はここまでにしましょう。

松井がやってみてどうだったか(定性的だが、絶対的な所感)

ここからは、みなさんには「読ませる」パートになってしまいますが、僕にとってはとても書きやすい、ラクなパートです。松井は実際やっててどうなん?ということを語ろうと思います。が、例によって長くなりそうなので、先に結論をまとめます。

サマリー
・多くの人に読んでもらえて嬉しい。
・自分で表現の場をつくれたのは良かった。誇らしく思う。
・文章と 写真、音楽などとのバランスも取れてるのではないか。
・今まで、こういう実践をやってみる勇気が、どうしても出来なかったが、書けるようになるまで回復できてよかった。だって三年間全く書けず、自分の感覚さえ疑い、好きだという感覚を否定する生活を送っていたから。
・自分の責任においてやっていることは、自分にも課し続けたいし、みなさんにもそのつもりで読んでもらいたい。

こんな感じです。上3つは、書いた通りなので、詳細の記述は省略。下の2つは、補足します。

・今まで、こういう実践をやってみる勇気が、どうしても出来なかったが、書けるようになるまで回復できてよかった。だって三年間全く書けず、自分の感覚さえ疑い、好きだという感覚を否定する生活を送っていたから。

拙文「生きてることに遠慮なんてしねえよ」を中心に、これまで何度か記述してきましたが、僕はいわゆる「青春時代」(くすぐった!!!)に、自己否定を繰り返してきました。結果、自分の感覚によからぬ影響がありました。その結果、あんなに大好きだった「書く」ということができなくなってしまいました。それは今振り返ると必要な経験だったと思うのですが、当時の自分を思い返すと、それはあまりに結果論的な、酷な物言いです。それくらい、しんどかった。

が、そこから回復を果たし、この「ヘタウマ生活曼荼羅」を書いている、名前もまあまあ気に入っている、書いたことも自分なりに愛している、自分でディフェンスできる文章だと思えている。このことに、僕は、じんわりとした嬉しさを感じます。ほんと、頑張ってきてよかったな、と思います。「思い出せないくらいフラフラに」なりましたが、なんとかここまで辿り着いた。そのことは自分なりに評価し、僕は次のステージ、水準に上がっていきたいと考えています。

・自分の責任においてやっていることは、自分にも課し続けたいし、みなさんにもそのつもりで読んでもらいたい。

僕は、第3回目の原稿で実名を公表しましたが、これには意図があります。それが上記の文章にもある通り、「自分の責任」に対する意識の表明です。僕は、松井周星という実存をかけて書きますと言いました。こんな一介の市民の散文集で、フォロワーも30人しかいないお前が、何言ってんだ、という指摘は、ある意味ごもっともです。

しかし、どんなに小さな存在だとしても、わたしがわたしであるというのはそういう事です。「生きていることに遠慮なんて」不要なのです。どんな自分でも生活する権利があります。ものを書き、声をあげる権利は奪えません。僕の経験は、絶対に僕のものなのです。

その一方で、「責任」を僕は大事にしたい。つまり、ここに書く一切の責任を負わなければならない、と僕は考えています。また、その覚悟があります。僕はもう、風向き一つで意見を変えたり、やりたくないことをやったり、言いたくないことを
言ったりしたくないのです。ある場所では「A」の立場で、別の場所では「B」だということも、人を選んで「A」でありながら「B」ということも、権威にひれ伏したり、おもねたりして「A'」風のことを言うのも御免です。そういう態度は、本当に、大っっっっ嫌いなんです。

だからこそ、僕は言うべきことを言い、できないことはしないようにしたいです。僕が〇〇と発言することは、どういうことなのかを、考えた上で発言します。実は、このnoteをどこで、どのように公開するかというのも、かなり厳密にコントロールしています。語法やレトリックの使い方、引用の仕方にも細心の注意を払っているつもりです。したがって、この実践の総体に明確な意図があるのであり、その責任は松井周星に帰すものであるということです。

立派な演説をしている風に聞こえるかもしれないですが、僕はぜんぜん立派な人間とは言えないです。これまで、自分の発言や行動の不用意さ、自分の稚拙さや未熟さや、想像力の欠如のために、数多くの人を傷つけてきました。裏切ってきました
。嘘をつきました。今思い返すとなんでそんなことができたのかを疑うほどのこともしてしまいました。

しかし、それはやってしまったのは僕なのです。本当に申し訳なく、取り返しのつかないことをしたと思っています。すべての人に、深く謝罪したいです。それを償うことができるのであれば、可能な限りにおいてなんでもしたいと思っています。

しかし世の中には、いくら謝罪したとて、補償をしようとしたとて、それでも取り返しがつかないことが存在すると、僕は思っています。もう顔も見たくない、書いた文章、撮った写真、自分という存在に関わる一切を拒否したいと言う態度もありうるものだと思っています。それは、「話せばなんとかなる」「顔を見合わせれば変わる」といった傲慢な態度、議論の地平を絶するものです。もう、どうしようもないのです。僕はある意味では、自分はそういう人間だと思っています。

だから、僕はそれを踏まえて、ものを書き、発言をします。行動します。生きていきます。そうするしかないのです。それが生きていくことの責任なのだと、僕は
さしあたり考えています。

すみません。こんなことを書くつもりはなかったのですが、ちょっと熱が入ってしまいました。水を飲みます。換気をして頭を冷やします。でも、僕の執筆への態度や、「ヘタウマ生活曼荼羅」の理念みたいなものは、曲がりなりにも、みなさんに伝わったのではないかと考えています。次の話題に移りましょう。次は、みなさんからのリアクションについてです。


いただいたご意見、ご感想(匿名で一部紹介)

僕の投稿にはコメントが0件ですが、個人的にメールやSNSで感想が
ちらほらと届いています。なかには、「シュウセイの曼荼羅楽しみにしてる!!」とか、「しっかり読んでから感想を伝えたい」、とか、「読書リスト」を読んで、松井の読みたい本をプレゼントしたいという方もいらっしゃいました。本当にありがとうございます!そういうお気持ち、本当に嬉しいです。

この曼荼羅はみなさんと作るものですので、今日はその感想の一部を共有したいと思います。まずはお一人目。

すごく正直な文章で好き
周星ってあんまり自己表示得意じゃない印象があるからびっくりした、(中略) 面白いよ
いつも長さを感じさせない文章ですごいね あと タイトル良いね

いやーーー、嬉しいですね。沁みます。「文章を好き」っていうのが、僕は
一番、何より嬉しいです。それも、お世辞じゃないなら尚更!生きてて良かったな〜と思います。本当、ありがとうございます!

この方は、僕をよく知る人物であるようで、マツイの「自己表示」について
語られています。そうですね、確かに僕はあんまり自己表示は得意ではないです。だからこそ、このnoteで訓練してる節はあるかも。もっと正直な人間になりたい。

あと、タイトル褒めてくれてありがとう!!僕はタイトルをつけるのがすごく苦手で、それもこのnoteで訓練しているつもりです。大学の卒論の表題は「『造られない』水の価値」と題したのですが、いまだに後悔してます。全然いけてない。いまだにコンプレックスを感じます。が、なんと「ヘタウマ生活曼荼羅」が褒められるとは!ばか良(い)がったな〜〜〜!(西蒲弁)

次はお二人め。

書くことで日々の生活をつないでいこうとする姿が目に浮かびました。
(中略)
文章、読めてとても嬉しかったし、また度々読めたら嬉しい。
とはいえ、書くことは他人の評価のためではなく、自分をケアするものであって欲しいから、書きたいときに書きたいものを存分に綴ってね。

これも嬉しいですねぇ、、。僕のことをよく理解してくださろうという態度のようなものを感じとらせていただきました。この方もまた、言語や思想というものに、ひたむきであるのだと想像します。ものを書く、読むことへの、ただならぬ責任を感じました。こういう読者、知識人に自分の書いたものを読んでいただけることは、何事にも変え難い喜びです。本当に、ありがとうございます。

どんどんいきますよ!3人目です。

Excelente shui, lo leí todo, está muy interesante tu expresión y tus sensaciones al escribir, te felicito desde aqui el pais que te espera pronto!!! 👌🏽💯

どうでしょう、読めますか?これは僕のコスタリカの友人からのメッセージです。届いた瞬間に、腰が抜けるかと思いました。確かにインスタで告知みたいなことはしましたが、本当にリンクに飛んで、それを翻訳にかけて読んだということだと思われます。彼とはもう、10年近く会っておらず、テキストコミュニケーションも5年ぶりくらいでした。そんな彼が僕の書いたものに興味を示して、次のように言葉を届けてくれました。

(松井私訳)
すごいねシュイ、全部読んだよ、お前の表現とか書くことへのセンスが、すごく面白いと思った、お前をまたすぐに待ってる国(コスタリカ)から、お前を祝福するよ!!!👌🏽💯

これは本当に嬉しいし、すごいことだと思うと同時に、書くことで拓かれるさまざまな可能性を僕に思い起こさせてくれました。僕の書いたもの(あえて「エクリチュール」とも書いておきましょう)が、思いもしなかったような展開に導くということがあるのです。これは面白いぞ!と思っています。そういう可能性と向き合いながら、これからもカリカリと書いていきますね!Gracias!

次で、今日は最後にしましょう。4人目です。

おもろいやん
(中略)
日記もいいけど
もう少しレイヤーを上げた(読まれる文章を意識して)文章を書くとブレイクスルーあるよ

この方も「おもろい」と言ってくれました。嬉しいですね!同時に、みなさん
大丈夫ですか?面白くないことは、面白くないと言っていいんです。僕は批判されることは怖いですが、批判されることには慣れています。そして、批判の可能性が
ない言論などあり得ないとすら考えています。なので、正直な感想を、思ったタイミングで、思った言い方で言ってくださいね。

先に断っておきますが、この方は文筆業に関わる仕事をしているいわばプロフェッショナルです。なので、いただいたアドバイスはもっともだなと、二重の意味で松井は受け取りました。そうですよね、読ま「れ」る文章ね。「ブレイクスルー」も、僕が欲している体験の一つではあります。

ただ、僕はどこかで、「この文章は誰にも読まれなくたっていいや」「ダメでもいいや」みたいな風に思っている節がある、ということも補足しておきたいと思います。これまでの論とはやや矛盾するのですが、こういうやや投げやりな態度、諦めみたいなものを抱えながら書いているということを、可能であれば読者のみなさんには頭の片隅に置いておいてもらえたら嬉しいです(もれなく松井への理解が進みます)。


課題
完璧な文章など存在しないように、この作品にも課題はあります。
松井なりに見立てた現在の課題を、以下にまとめてみました。

・目次を整理できていない

・コメントを募集するスキームの構築(コメント0な訳がない)

・扱うテーマは、思いつきによっている  例:「アイドル」の次が「ey」
論理的、シナリオ・ライティング的な手法に頼れば、もう少し魅力的な構成になるかも、とは思うが、それが行き過ぎるのはマツイのスタイルではない。
当面今のままでいいのではないかとは思っています。

・記述が独りよがりかもしれない?
 僕は、企業の面接によく「落ち」ます。別に落ちてもいいやと思っているのですが、一方でそれは、私の語り方が独りよがりなのではないか?と最近思うようになりました。これについては、検証を進めたいと思います。また文章の訓練は、曼荼羅制作と並行して進めています。

今後の展望

読者の獲得、記事の露出が、第一の目的ではないではないということを、僕は何より先に断っておきます。

手段を選ばずにインプレを稼ぐことを至上命題とすることや、「言葉を使って対話するように見えて, 実は興味をひければなんでも良い状態」(落合陽一さんの表現です)をつくることは、断じて避けたいです。校正者・大西寿男さんの表現をお借りすることが許されるのであれば、「言葉を泣かせる」行為だと思います。僕も、今の世の中、「本当に言葉が泣いている」と思います。そういう態度は示すつもりはないですし、そういうものには厳しく向き合っていきます。

また、今後は、個人的な関心から、哲学・現代思想への傾倒が強まり、そういう原稿が多くなるかもしれません。なので、やや話が小難しくなる可能性があります(決して小難しい話をしたいのではありません。簡潔に語れないマツイの問題です)。

しかし、私は哲学や現代思想を、実生活に結びつけて考えたいという明確な問題意識があります。生活の主体であるからこそ、現代思想の諸問題に関心があるのです。関心の方向性は、「哲学→生活」というより、「生活→哲学・現代思想→生活」です。生活にはじまり、生活に戻っていきます。

知識人の名前と仕事をあげる無礼が許されるならば、

デリダ『ポジシオン』、
バトラー『ジェンダー・トラブル』、
レヴィナス『全体性と無限』、
メイヤスー『亡霊のジレンマ』、
ジジェク『あえて左翼と名乗ろう』

にみられる論やテクストに関心があります。しかし、みなさんの一部はお分かりのように、これらは到底一人では読めず、理解できません。太刀打ちできない、また、それを許さない巨大な壁であり塔だと僕は思っています。またこんな形で大家のお名前を列挙するなど、たいへんおこがましいと思っています。ほんとにスミマセン。でも、まずは興味関心をアウトプットすることからはじめます。そのための曼荼羅です。mandalaです。フィジカルにコツコツやっていきます。みなさんの力もお借りすることになるかもしれません。どうぞよろしくお願いします。

物語の執筆(メンバーシップ制と絡めて実践したい)や、読書会・ゼミなどのイベントも開催できたらいいな〜と思っています!

学問の方法論にもとづく真理と本質の追求を目的としながら、それが「たのしい」ということを大切にする学びの場を、いつかつくってみたいと思っていました。それは公教育とは別の形で、また、指導を目的とするのではなく、学ぶことに関する「共愉」を追求できる空間にしたいと現時点では思っています(注:「共愉」とは、建築家・金野千惠さんの提唱されていた概念です)。

これはもう少し先になるかな!続報をお待ちください。

朝から休み休み書きましたが、そろそろマツイの頭はオーバーヒート気味です。ここらで一服させていただくこととします。

本当、読むのも大変ですよね、、。配慮が及ばずすみません。もっとみなさんの生活を想像し、肩を寄せる、なんとなく、しかし、しっかりと横にいる、傍にあるような文章を書けるよう、日々鍛錬していきたいと思います。

それでは、ごきげんよう!shuseimatsuiでした。


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