見出し画像

いつかの日記:エストニア・ノート 2023/11/4

[エストニア・ノート]
2023.10.22-23. エストニア・タリンを訪れた。
.
ヘルシンキからフェリーで2時間程度で到着するタリンは、フィンランド観光客のもう一つの目的地として有名である。
例によって私もフェリーに乗り、1泊2日の旅程でタリンを訪れた。

タリンには「旧市街地」と呼ばれる、城壁で囲まれた地区がある(1997年に世界遺産登録)。中世風の建築と街並みが現在まで保存されており、多くの観光客を集めている。
歩いているだけで心が躍るような、楽しい場所であった。
.
今回のエストニア訪問には、目的があった。それは、同国が経験した歴史を追体験することである。
エストニアの独立は1991年と実は最近のことで、現在に至るまでには簡単には要約しえない歴史がある。
タリンには、ソヴィエト占領時代の史実を記録した博物館や、犠牲となった国民を哀悼するモニュメントがあるという。

こういう世界情勢の中であるからこそ、それらを絶対に訪れなくては!旧市街のホテルに荷物を置いて、城壁の外へ急いだ。
.
まず訪れたのは「ワバム博物館」(Vabamu Museum of Occupations and Freedom)。
英語表記に「占領」と「自由」とある通り、ソヴィエト「占領」下時代に経験した史実、人々の主体的な運動の末に掴んだ「自由」についてアーカイブされている場所だ。

入場料を支払うと、来館者には音声ガイドが配布され、案内にしたがって館内を巡るのだが、入館してまもなくの、導入の一節がとても印象的であった。

「私たちがみなさんに見ていただきたいのは、痛ましい過去とそれを与えたものへの憎悪ではなく、私たちが掴み取った自由と勝利についてです」(注1)

抑圧の歴史がもたらしたものは、言うまでもなく痛ましい。
しかし、来館者にそれらを正面から突きつけるのではなく、それが現在を生きる私たちにとって何を意味するのかを、展示がいろいろに問いかけてくる(注2)。

あなたはこの歴史に対してどう思うのか?あなたにとって自由とは何か? 
数々の展示の問いかけに、自分自身を試されるような感覚があった。
.
今後この場所を訪れる方々のために多くを語ることを控えるが、ひとつだけ私の主観的感想を残したい。

展示を通して繰り返されるメッセージの一つに、「自由をもたらしたのは、国民の主体的なアクションである」、というものがある。

厳しい弾圧の中で、声をあげ続けた市民や、出版物の発行による抵抗した人びとの記録があった。
それらがどれほどの勇気と覚悟を要するものだったかを思えば、尊敬の念を抱かずにはいられない。
何かを求めるならば、自分が行動せよ。それを体現した人びとからは、私も学ばなければいけない。

しかし、世の中には、声をあげたくてもあげられない人がいる、と私は思う。主体的なアクションを起こしたくてもできない人が、確かにいるのだ。
そのような「声なき声」があることを、忘れてはいけない。そして、そのような人びとの声とアクションを代弁するのがソーシャル・ワーク、福祉の仕事であるはずだ。
人間の生活を支援し、生存権、幸福追求権を保障する実践としての福祉には、代えのきかない価値があるはずだと、より一層思いを強めた。
.
翌日は、マーヤルメー記念公園(Ajaloomuuseumi Maarjamäe lossipark)を訪れた。
同公園は、タリン旧市街地からバスで15分ほど離れた場所にあり、1940年代〜90年代にかけて「共産主義の犠牲」となった10万人以上の国民を哀悼する展示やモニュメントが残されている(注3)。
Google mapで調べてもなかなかヒットせず、食事したレストランの人に場所を教えてもらい、現地に赴くことがかなった(マスター、本当にありがとうございました)。

月曜日の朝だからか、広大な公園を訪れる人はほとんど私ひとりのみだった。

殉死した兵士を追悼する十字架と慰霊碑。国内外で亡くなった多くの国民の名前がびっしりと刻まれた巨大な黒い壁。それらを目の前にし、言葉を失った。

壁に刻まれた名前の横には生没年が記されており、年代を問わず多くの人びとが亡くなったことがわかる。その中には子どもも多く、生まれてまもなく命を落とした子どもたちもいる。

私の憶測に過ぎないが、壁に刻まれた名前はいわゆる「男性名」が多いように思われた。ここに記されないまま失われた命も多いはずだ。

私と同年代の人びとの名前も数多く見つけた。この前々日、私は26歳の誕生日を迎えることができた。それが、どれほど幸運なことであるか、身に染みてわかった。

彼らが生きたかったかもしれない人生を、私はいま生きている。そう思うと胸が締め付けられる思いがした。彼らの思いを胸に、自分の生を大切にしようと心に決めた。
.
黒い壁の間を通り抜け、公園をあとにしてからは、海沿いを歩いてタリン中心へ戻ることにした。そうしない訳にいかない気がしたのだ。

分厚い雲が空を覆い、冷たい雨が静かに降る、寒さの厳しい朝であった。
エストニアからボートでシベリアに追放された人びとが、きょうのような極寒の天候の中、見知らぬ土地へ送られ、もう二度と戻れないことを想像するだけで胸が痛んだ。
.
タリンの中心に戻ってからは、あてもなく街を歩いた。城壁の中の旧市街ではなく、わざと城壁の外を歩いた。エストニアの人びとの生活を観察したいと思ったからだ。

公園はあれほど静粛であったのに、午後のタリンの街は多くの市民で賑わい、人びとの日常があった。
道行く人は様々な表情を浮かべていた。どこかに急いでいる人もいれば、難しい顔をしている人がいた。レストランやカフェで、家族や仲間と食事やコーヒーを楽しんでいる人もいた。

たまたま通りかかったタリン大学には、多くの学生、集まり、熱心に学んでいた。
私には目新しかったけれど、思えばそれは、東京や千葉やヘルシンキと同じような人びとの生活であった。
.
エストニアの旧市街も魅力的であったけれど、私は城壁の外の、市民の生活の一場面に居合わせられたことを光栄に思う。
そして、人びとの今の暮らしや、私がエストニアを訪問がかなったことは、同国の歴史と国民の勇気ある行動と確かに繋がっている。そのことを肌身で感じることができた経験は、何にも代え難い。

これからも人びとの生命と生活が守られますように。そう願って、フェリーに乗ってヘルシンキに戻った。

(完)

注1:私の今回の旅程は、私の友人Tsuguko Yrjönmäki Kawasaki さんにアドバイスいただいた。本当にありがとうございました!
ご本人の承諾のもと、訳文と、彼女の旅行記(とても美しい)を引用させていただく。
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=3547363578878857&id=100008157495779&ref=embed_post

注2:IT大国エストニアらしく、数々のテクノロジーの応用があった。来館者がリアルな体験をできるような技術のアプライ。まさに、人間のためのICT活用といったところだろうか。

注3:「共産主義の犠牲」とは、マーヤルメー記念公園の展示物に記載してある”VICTIMS OF COMMUNISM”という表現に倣った表記である。本稿は、共産主義やその思想そのものを否定したり批判したりすることを目的としたものではないことを強調したい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?