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存在するという事①

死生観について書いたところでもう一つ香ばしい話題を…テーマは「自分という存在とは?」です。

基本的人権の「生存権」への疑問

学校で習う基本的人権、そのうちの一つに生存権があります。内容は深堀しませんし認識違いなどあるかもしれませんが、「権利」とされている以上は放棄も可能で強要されるべきではないと考えます。

しかし、実際は生存権の放棄は認められないと認識しています。これも詳しく調べたわけでは無いのですが、大多数の人がそもそも生存権の放棄を望まない事、本能的に生きる事を望む事などから、話題にすらならないのでは?と考えています。

私の死生観では誰にも迷惑をかけず、納得している状態ならいつ死んでもいいので、この状態はおかしいのでは?と考えてしまうのですね。

色々考えた結果、国家として国民の生存権の放棄は許されないが最も合理的な解であると考えました。国民が居なければ成立せず、税収も下がり、労働力を失う事で国益も損ねるからです。

このまま生き続けなければならない、自殺は痛いし怖いし迷惑かける…存在理由を失ったと思っていた私はふとある事を思い出しました。それは「自分が存在しているというのはどういうことなのだろう」です。

そもそも自分が存在しているという事の定義は?

20代半ばのある日の夜、ふとこんな事を思いました。「今視界が真っ暗でまだ目も慣れていない真っ暗闇の状態。重力を感じているから自分が確かに存在しているのは解かるが、それではどこまで感覚を削れば自分がそこにいるのかわからなくなるんだろう?

例えば五感全てを遮断できるとします。それでも思考は働いているわけで、自分は確かに存在することになります。「我思う、ゆえに我あり」ってやつですね。でも、「この状態がどこまでも続いたとしたら?それでも自分はここ(おふとんの中)にいると言えるのだろうか…?」と考え始めました。当時はここまでで「ま、そんなこと起こりえないし考えてもしゃーねーわ🤤」という結論に至りましたw

その後も定期的にこの経験を思い出してはいたのですが、深くは考えませんでした。これに関する知識のアプデがない限り解は同じなので🙄

つづく🤤