「意識と本質」読書ノート

10年ぶりくらいに井筒俊彦「意識と本質」を読んでいる。

井筒は哲学的方法としての意識と言語に着目しているが、そもそも方法としてここにとどまるのはなぜなのか。

哲学が言語としての記述を方法として用いるところまではわかるのだが、それがなぜ舌で舐めるとか手で叩くとか匂いを嗅ぐではないのか。

言語的分節-無分節の問題は、あらかじめその方法を言語に固定して解決しようとする。

「本質」と呼ばれるものの意義や位置を考えれば、言語による定義や非定義の内側に留まり続ける以外にない状況がとても不自然だ。

まだ途中なので引き続き読む。

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