見出し画像

【週刊自己肯定感】「女性のためのエロス」其の三。セックスとはこころにシャッターを下ろして役割を果たすものだと思っていた、の巻。


みなさまおこんにちは、


自分責めの毎日からわたし大好きがあたりまえな毎日を。


あなたのドーパミン、
心理カウンセラーのイチカ✳︎ドーパミントです。


ブログにお越しくださってありがとうございます。


画像1



うっかりしていた。


先々週の【週刊自己肯定感】で、続きは来週と書いておきながら桃の話を書いてしまった。


桃=女性性=生殖=エロス、という図式があるやもしれないけれど、


たのしみにしていてくださった稀有な方が万が一居られましたならば、ほんとうにすみませぬ。



(先々週の話はこちらからどうぞ)


では、先々週の続きをば。



「女性のためのエロス」という映像作品を観ると、女性はどう変化するのか。


今回もそこに至るまでの序章だけれど、よかったらおつきあいいただけたらと思う。



そも、「エロス」とはどういう意味だろう。


みなさんにとっての「エロス」とは、どんなイメージであろうか。


わたしの住むオーサカではね、エロスいうたら、乳としりのでかくて髪と足の長い露出の多い女が


にこにこしながらばいーんぼいーんうふーんさわってーって言うような、


とってもきもちのわるい、


なに考えてるか知らんけど、ばかの持つ海綿体が即座に反応するだけの、


それだけのばかみたいなばかみたいでばかでばかでばかでばかでどうしようもないクソつまらないクソくだらないことをあらわしている。


だから、わたしにとってのエロスというのは、即物的刹那的その場限り一瞬の感情だけでなんの哲学も生産性も味わいもない、


ばかなひとがばかみたいに繰り返す汚らしいもの、


という印象だった。




だけれど、


「女性のためのエロス」を観たあと、わたしにとってのエロスということばのイメージは、がらりと変わった。


ばかがばかみたいにエロエロエロエロと繰り返す、無価値にも程があると怒りすら感じていたけれど、


それはすべて、自分を責めるための感情だった。


ばかばかとたくさん書いたけれど、それはすべてばかでまぬけなわたしに向けて書いたものであるのだ。



そして、いまはどう思っているのかといえば、



愛とか生命力とか生み出す力とか、



オーガズムの持つ、すべてを解放する力とか、



愛して、信頼して、愛されていると実感した相手とのつながりを感じることでしか得られない自由とか、



すべての鎧が砕け散り、さらさらと風に吹かれて消え去るような衝撃とか、


まるはだかの自分を晒すことへの不安や恥ずかしさとか、


あるいは、その不安や恥ずかしさをごまかすために呼び出す意地や怒りとか、


そんな切なくいじましい、人間という生き物の持つすべての感情とか、



ネガティブでも、駄目でも、たるんでても、しわしわでも、太ってるくせにあばらがういて腹筋がバキバキなのに下腹ぽっこりべこべこの、このけがらわしくきたならしいアラフィフのババアでも、



どんな自分だって愛されていることを認めてそれをよろこびとすること、


だと思うようになった。



自分が自分を醜いと思ったっていいやん。


いくらわいろをもらっても、口が腐っても、自分はきれいなどと言えなくったっていいやん。


わたしは醜いブスや、それでもいいやん。


わたしはブスやけど、なんとなく自分をきらいではない、それでいいやん。


それがエロスだと思うようになった。




さて、代々木忠監督の映像作品「女性のためのエロス」をどうしても観たかったわたしは、恋人に一緒に見てほしい、とお願いした。



わたしが持っている自己嫌悪や自己否定、



自分に対してなんの価値も感じられない無価値観、



自分が存在してしまうことに対する罪悪感、



それらがあることでわたしはずっと生きづらさを感じているのだけれど、これはセックスのときにもろに出る。



いつも以上にわたしがわたしを嫌いなとき、気持ち悪い存在だと思っているとき、セックスができない。



こんな気持ち悪い自分が醜い裸をさらして身分不相応なきたならしい欲を丸出しにする、


そのさまがだらしなさすぎて、みじめで、吐き気がするのである。



わたしにとってセックスはずっと、自分を痛めつける行為だった。



気持ち悪っ!!!


最低!!!


醜い!!!


他にすることはないんか!!!


汚らしい!!!


やらなきゃならんことが山ほどあるやろ!!!


子供ほっぽらかして男とセックスする腐った生ゴミ女!!!


性欲しかない醜いだらしない汚らしいクズ女!!!


どうしようもないダメな人間!!!


生きてる価値なんてなんにもない!!!




そういう気持ちを再確認するためにあった。




そこから抜け出したいと思えるようになったのは、


いまの恋人と出会ったからである。



このひとは、わたしを道具として見なかったように思う。



生きて、考えて、感情を持っている、
自分とおんなじにんげんだという目でわたしを見ていた。




さきほどわたしは、


>わたしがわたしを嫌いなとき、気持ち悪いと思っているとき、セックスができない。


と書いたけれど、これはいまの恋人、チベットスナギツネにそっくりのTBSさんに限ったはなしである。


わたしがわたしを嫌いなときでも、いままでの彼氏たち、元旦那さん、彼氏たちとはセックスできていた。


(いいわけ。わたしは頑固なモノガミーであるので、恋愛中にひとりの雄としかセックスしない。同時進行はない。


元旦那さんと離婚すると決めてから離婚するまで何人かの彼氏はつくったけれども、元旦那さんとの性的交渉は一切なく、


誰かを恋人としているあいだ、あらゆる他者の肉体の侵入や蹂躙をすべての内臓や粘膜肉体肌に許可したことは一度たりともないし、


そんなことを望むクソ野郎をブチころしてやりたいと思っている。)



いいわけがながくなった。



セックスできていたというか、誰にもわたしのなかの空虚を読ませなかったのだ。


仮に多少読まれても、それをなじったりして有耶無耶にした。


好きで恋してつきあってセックスまでしているのに、わたしは恋人たちや元旦那さんのことをまったく信用できていなかった。


男性というのは、性欲でしか女を見ないと思っているほうが都合がよかったのだ。



男性は、女にも脳みそとこころがあることを知らず、理解もできないのだと断じているほうが心地よかった。



それは、わたし自身が男性に対して



男性には脳みそもこころもない、あるのは性欲だけで理解しあうことは不可能だ、といういろめがねを持っていて、



いままで出会ったすべての男性を、そのレンズを通してしか見れないということをあらわしている。



それを、TBSさんは破壊した。



恋人は「そんなにセックスが嫌ならするな」と言った。



わたしはそれまでセックスしたいと言われれば、



瞬時にこころにシャッターを下ろして、なにも感じない機械になるようにしていた。



こころは感じないけれど、礼儀として、からだを動かして声を出していた。



別にしたくないしどうだっていいし、どちらかと言えば面倒なだけだけれど、望まれるから役割を果たす。そんな気持ちでセックスしていた。



なんでそんなことをしていたのかといえば、わたしはただ愛されたかったのだ。



愛されるとは、自分をころして相手の望みを叶えてあげることなのだと思っていた。


いやいやしてないやん、言われたことちゃんとやってるやん、なんで責められなきゃならんの?


そういうわたしにTBSさんはいった,


それはセックスじゃない。俺はそういうのはしたくないから、しなくていい。



わたしにはその意味がわからなかった。



それを理解したくていろいろあがいては題材を見つけ、TBSさんの元に持っていってはなしをする。


そんなやりとりを5年も続けていたところ、代々木忠監督の映像作品に出会った。



来週に続く。



画像2



今日もおつきあいくださってありがとうございました。


すてきな今日をお過ごしください。


イチカ、あなたのドーパミンより。



画像3



画像4



画像5



画像6


ずっと罪悪感を抱えて、自己肯定感ひっくい人生を送ってきたんですけれど、いまは応援していただくことの修行をしています。よかったらサポートお願いします。いただいたサポートで土偶や土器の博物館に行きます。