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Nostalgia 第二章・1

第二章

 新しい服と靴が出来上がったのは、採寸から丁度一週間後のことだった。靴を待つ間、メアリは家から一歩も出ないままに十二月を迎える。
 一週間家に籠もりきりだった割に、退屈は一切なかった。教授の家にはひっきりなしに来客があったからだ。
 教授を尋ねてくる人間は学者仲間かと思いきや、実際は軍人や警官が殆どだった。教授は軍は勿論、警察にも協力しているのだそうだ。彼等は難しい暗号の解読や、あるいは困難な事件があると、教授のもとに資料を持ち込み、意見を聞きに来るという。
 特に暗号の解読には数学の知識が必要で、軍にも専門の数学者がいるのだけれど、彼等の手に負えないものが出てきたときは、教授に依頼をするらしい。
 自分が世話になっている人が、そういう世の中のためになることを行っているというのは誇らしいとメアリは思う。ジェーンもまた、占いの力で人を救っていた。誰かを助けられることは、本当に良いことだ。
 だから、ごくたまに、距離や時間などの立証で複雑な計算が必要なときなどは、メアリもそれを手伝った。数式を問われるだけで、一瞬でそれを回答するメアリの能力は警官にも驚きらしく、偽金の立証の為の金属の割合を計算したときなどは、フィックスと名乗る警部から握手を求められたほどだ。
 フィックス警部は切れ者なのに行動力のある善意の警部で、自分の名誉や手柄よりも真剣に被害者のことを思う人間だった。だからメアリは彼がとても好きだ。彼の話ではイーストエンドは相変わらず物騒で、つい三日前にも、身元不明の若い女性の死体がテムズ川に浮いたという。顔も潰され、身元もわからないそうだ。これを受け、数日前から警官による警邏(けいら)も増やしているそうだが、貧民街はそういう事件が後を絶たない。それこそいたちごっこというやつだろう。けれど、彼は必ず犯人を捜してみせると言っていた。そうでなくては被害者が浮かばれないからだ。イーストエンドでいつも理不尽な暴力に怯えていたメアリにとって、彼の正義感は本当に頼もしかった。彼の力になれたらと、そう思う。
 警官以外では、フィリアス・フォッグ二世と名乗る青年が二日と開けず通ってくる。こちらは教授の教え子だそうで、旅行代理店の経営をしているそうだ。クリスマスは本当に海外で過ごす予定になったらしく、その為の手続きに来ているらしい。
 フォッグ二世はとても面白い青年だった。明るくて快活で社交的で、いるだけでぱあっとその場が明るくなるような人物だ。声は獅子毛のような金色で、纏う数字は六近辺をうろうろしている。数字が定まらないのは、彼が冗談ばかり言うせいだろう。陽気なほら吹きと言ったところか。フォッグ二世は、パンフレットを山のように持ってきては、いろいろな国の話をしてくれた。
 フォッグ二世は、山登りや冒険が趣味で、世界中の山を渡り歩いていたという。教授と知りあったのも、アルバート・スミスのモンブラン登攀にあこがれて瑞西(スイス)に滞在していた時らしい。
 パンフレットを開きながら、フォッグ二世は世界各国の話をたくさんしてくれる。

 ――三十年ほど前に開国した、東の果ての小さな国の、エキゾチックな町並みのこと。
 ――北の果てで見られる、緑の極光のこと。
 ――南にある、モザイク模様で飾られた、ドームが美しい異教の教会のこと。
 ――赤道付近の、動物園よりもたくさんの種類の動物が住む、暖かい常夏の島国のこと。
 ――南の果ての、夜が明けない白き常冬の大陸のこと。

 それは、聞くだにわくわくするような話ばかりだ。見たことのない世界の聞いたこともない話に、メアリはうっとり聞き惚れた。メアリが望めば、世界中、何処にでも連れて行ってくれると教授はいう。それは本当に魅力的な誘(いざな)いだった。
 何処に行くにしても、英国から一歩も出たことのないメアリには未知の場所には違いない。
 行く先は、十二月半ばまでに決めてくれれば良いという話なので、メアリは毎晩のようにパンフレットを眺めては、そんな未知の世界に思いを馳せる。
 教授の家には旅行記や地理の本の類いがあまりなかった。倫敦や巴里(パリ)、紐育(ニューヨーク)や羅馬(ローマ)などの、世界の主要都市の地図はある。けれど、地図だけでは、やっぱり詳しいことは解らない。
 新しい靴が出来て最初に何処へ行きたいかと尋ねられたとき、真っ先にミューディーズを上げたのは、そう言う理由からだった。クリスマス休暇のためにも、まずはいろんな人の旅行記が読んでみたいと思ったからだ。
 メアリの答えに、教授は相変わらずの闇色の声で言った。
「私は今日中に済ませてしまわないといけない仕事がある。だから、ウィリアムを供(とも)に付けよう。気象台は、明日辺りから雪になると言っていた。何か欲しいものがあれば、今のうちに買っておきなさい」
 そういって、教授は小遣いまで渡してくれる。メアリはありがたく受け取った。最初は何もかも遠慮をしていたが、遠慮する方が失礼に当たると言われ、今ではすべての好意を素直に受け取るようにしている。この恩はいつか必ず返そうとその度に心に誓う。
 出来たての服と外套、そして真新しい靴は、びっくりするほど体に馴染んだ。今まで着ていた服も相当着心地が良かったのに、オーダーメイドの服は細部までしっくりくる。靴も柔らかくて、痛いところが何もない。
 帽子も可愛らしくて、軽かった。
 着るものが上等のものになるだけで、貧民街のやせっぽちが、たちまちのうちに良いところのお嬢さんへと変身する。鏡に映る自分の姿に、馬子にも衣装というのはこのことかと、メアリは他人事のように感心した。
 メイドの手で髪も綺麗に整えてもらい、出発の準備が整うと、メアリはすぐにウィリアムの待つ玄関ホールへと向かった。
 玄関ホールには、爽やかな林檎の香りが満ちている。玄関ホールの隅に、青い林檎の詰まった木箱が置いてあるからだ。コックス・オレンジ・ピピンという、英国でよく見る種類のこの林檎は、散歩をしながら食べるのに丁度良い大きさで、喉の渇きを簡単に癒やせるくらいに瑞々しくて、甘酸っぱいのがとても好(よ)い。林檎の木がある家では、落ちた林檎を拾い集め、こうして玄関に置いておく。これらの林檎は、来客や家の者が勝手に食べて良いことになっている。林檎はメアリの好物なので、とても嬉しい。
 元から英国では、庭や街路のあちこちに林檎の木が生えていて、自然に熟して落ちた実は誰でも勝手に食べて良い、という暗黙の了解がある。この家の庭にも林檎の木が数本生えていて、植物の手入れはウィリアムの趣味なのだという。確かにメアリも、この一週間の間、時折ウィリアムがウェストコート姿で木の手入れをしているのを見かけた。
 そんな林檎の香りの中では、既に長身の青年が黒い外套とボウラーハットを手にして立っている。足下に小さなトランクが置いてあるのが見えた。
「お待たせしました」
 慌てて彼の元に駆け寄るメアリに、ウィリアムが静かに頷く。
「大丈夫。僕も今、来たばかりだから」
 相変わらず無感情な声だったが、しかし、やっぱり何処か優しいようだ。メアリが赤ん坊の頃も、彼はこんな感じだったのだろうかとふと思う。
 ウィリアムはボウラーハットを目深に被り、足下のトランクを持ち上げると、メアリを促し玄関を出る。 
 玄関を出て望む空は、確かに雲がいっぱいで、天気が下り坂になる気配があった。アスファルト舗装の道は、土の道より雪が凍りやすい。教授が今のうちにミューディーズ行きを勧めるのも当然だとメアリは思う
 徒歩でも十分行ける距離であるので、今回は馬車は使わなかった。一週間も家に閉じこもっていたので、外の空気を吸いたいと思ったのである。メアリは運動こそ苦手だが、散歩はむしろ大好きだ。
 久しぶりの外は空気が冷たいが気持ちよかった。二人で肩を並べて歩いていると、やがて大きな店がいっぱいの通りに出る。
 オックスフォード・ストリートは、大きな店でいっぱいだった。ここに店を出せるというのは一流の証でもあるから、ショウウインドウは何処までも華やかでぴかぴかだ。外国からの観光客も多いようで、人通りも多かった。ウィリアムはメアリを歩道に寄せて、人混みから庇ってくれる。
 軒を連ねる店のショウウインドウが、雑貨や日用品に変わった辺りがニュー・オックスフォード・ストリートであるらしい。先ほどの華やかさと打って変わり、この通りは生活感に溢れていた。倫敦大学も近いせいか、学生と思しき若者の姿も多い。
 オックスフォード・ストリートでは浮き気味だった二人の姿も、ここでは巧く溶け込めているようだ。
 ミューディーズの本店は、以前に教授が言っていたように、ミュージアム・ストリートとニュー・オックスフォード・ストリートの角に位置していた。大英博物館とも近いようだが、この辺りは通ったことがない。
 本店だけあって、直ぐ脇には配達用の荷馬車が止まり、従業員達が本の積み卸しをしているのが見えた。
「今日の新聞広告に、明日入荷の本のリストが載っていた。あれは多分、出版社からの荷物だろう」
 ウィリアムの言葉に、メアリは感心してその本の山を見る。同じ本が何百冊も運ばれていくのは圧巻だった。さぞかし人気のある作家の本なのだろう。メアリの疑問は、すぐにウィリアムが解消してくれた。相変わらず、まったく色も数字もブレない声で言う。
「あれは、ジョン・H・ワトソン博士の新作だよ。彼の探偵が亡くなってからの最初の作品集だから、引っ張りだこになるのは当然だ。きっと予約も多いんだろう」
 世界一有名な諮問探偵がスイスで死亡したニュースは、イーストエンドに住んでいる頃に聞いたことがある。メアリの知り合いにも、彼の使いっ走りをしている連中がいたからだ。使いっ走りとはいえ、手に入れるのには随分危険な橋を渡らなくてはいけないような情報も多くあり、実際へまをした何人かは、翌日にはテムズ川に浮いていた。そこまでして得られる報酬は、僅か一シリングぽっちだ。
 彼の事件簿には、そんな彼等の境遇もきちんと描かれているのだろうか。書いていてくれていたら良いと思う。
 ぼんやりとそんな事を考えていると、ウィリアムが、少しばかり話題を変えるように呟いた。
「新刊で思い出したが、今年からミューディーズは三巻本(スリー・デッカーズ)の入荷をやめて、安価な一巻本のみの入荷になるそうだ。あまり良くない傾向だと僕は思う」
「どうしてですか?」
 不思議そうにメアリが訊くと、ウィリアムがまったく表情を変えずに答えた。
「安価な本は自分でも買える。高価な本だからこそ、貸本屋を利用するんだ。ミューディーズは出版界に凄まじい影響力を持つ。これからは普通に売られる本もまた、安価な一巻本が増えるだろう。消費者的には良いことだけれど、文壇や貸本業界的にはあまり良いことではないのかも知れない、ということだよ」
 オーダーメイドと既製品の関係に似ている、と、メアリは思う。昔は靴も服もすべてオーダーメイドだった。それがミシンの発明で大量生産されるようになると、靴職人は激減し、今では上流階級専門の店が幾つか残るのみだ。良いものが安価に手に入る事は良いことだけれど、それで失われるものもあるのだと、沁々思う。
 硝子製の推し戸を一歩潜(くぐ)ると、そこは細長い玄関のような場所だった。質屋や貸本屋があえて狭い玄関を作るのには訳がある。強盗の侵入や、窃盗犯の逃走を足止めするためだ。客は確かに不便だが、金銭や品物の貸し出しをする店は何処もこうなる。
 玄関だというのに、華々しい装飾はあまりなく、僅かな隙間を気送管が縦横無尽に走っていた。入り口に取り付けられた案内板によれば、この建物は地上二階と地下一階の様式らしい。書籍販売部と貸し出しカウンターは一階で、二階は傷んだ本の修繕や、贈答品の部署と書いてある。ちなみに、地下はカタコンベと呼ばれる蔵書倉庫になっているのだが、この案内板には書かれていない。
「噂には聞いていましたが、ものすごく大きいんですね」
 書籍分類番号の検索も兼ねている案内板を見上げて、感心したようにメアリが呟く。そのまま天井を見て言った。
「それに、ガス燈ではなくて、電灯が照明代わりなのも凄いです」
 十五年ほど前にジョウゼフ・ウィルスン・スワンが発明した白熱電灯は、今や大量生産が出来るようになってはいたが、やはり高価な代物で、富裕階級の高級玩具といった認識でしかない。庶民の家にはやっぱりガス燈やオイルランプが主流であり、教授の家でさえ、書庫にしか白熱灯は設置されていなかった。そんな高価な電灯を全館に惜しみなく使えるというのは、ミューディーズがどれほどの盛況を誇っているかの証でもあろう。
 メアリの感動をどう捕らえたかは知らないが、相変わらずの調子でウィリアムが言った。
「本の天敵は、湿気と炎と日光だからね。ガス燈やオイルランプは勿論使えないし、窓だって、二階に上がる踊り場にひとつしかない」
 その言葉に、上の方を見上げると、確かにウィリアムの言うとおり、ここには窓がないようだった。二階に上がる階段の踊り場に、幅が三呎(フィート)にも満たない窓がひとつあるだけだ。
 それ以外の壁は、びっしりと、天上近くまで気送管や蒸気パイプで埋め尽くされているから、確かに窓を作る余裕もないだろう。
「湿気と炎はわかりますが、日光も本の天敵なんですか?」
「ああ。紙は紫外線に弱いからね」
「紫外線?」
 聞き慣れない言葉にメアリが訊き返すと、ウィリアムは少し考えるように言う。
「光を分光器で分解したときにできる色の帯があるだろう。あれは可視の光だけど、実際は目に見えない光もあるんだ。紫外線というのは、スペクトルが紫色の外側にあらわれる、目には見えない光線の事だ。波長は可視光線より短い。写真を感光させるのも、その光の作用だ」
 なんだか辞典を読み上げるような説明だった。その紫外線とやらは、写真を感光させる力で、紙を傷めてしまうのだろうか。
 ウィリアムは妙に博学で、訊いたことはすぐに答えてくれる。この青年に解らないことや苦手なことはあるのだろうかと、時々首を傾げるほどだ。
 他愛ないことを話しながら、二人は肩を並べて、吹き抜けになっている大ホールへと進む。
「わぁ……」
 ホールの戸を潜ると、まるでそこは本の王国だった。メアリは思わず感嘆の声を上げた。
 周囲の壁はすべて天井までの巨大な本棚で覆い尽くされ、枠の上を通信用の気送管が走っている。本棚にとりつけられた梯子を、従業員らしき人間が登ったり降りたりしているのが見えた。
「一階には、書籍販売部門もある。古くなったり、人気の衰えた本が格安で売られているから、いつでも満員だ」
 ウィリアムの言うとおり、ホールの向こうには、書籍販売部門と金文字で描かれたガラスの扉があった。大勢の人でごった返しているのが遠目からでもよくわかる。
 一階大ホールには巨大な半円型のカウンターがあり、それぞれA~E、F~K、L~R、S~Zの四つのセクションに分かれている。沢山の人がそれらのカウンターに列を為していた。
「会員の名前に応じて返却や貸し出し口が分かれている。先ずは会員登録をしてしまおう」
 ウィリアムが、メアリに短く説明する。そのまま、人を掻き分けるようにして、会員登録のカウンターまで連れて行ってくれた。
 この間教授に言われたとおり、メアリは倫敦・ブック・ソサイエティ部門の会員の申し込みを行う。ほんの一週間前までは、二ギニーの金を捻出するためにどれだけ苦労せねばならなかったことか。少なくとも二ヶ月は食費を切り詰めねばならなかっただろう。それを思えば、今がどれほど恵まれている事か。
 綺麗な服に、ふかふかのベッド。毎日お腹いっぱい食べられて、さらに自由になるお金まであるのだ。本当に恵まれすぎている。
 そんなことを考えながら登録を終えたメアリに、手続きをしてくれた事務員が優しく微笑んだ。
「今日から三冊の貸し出しが可能です。借りたい本がございましたら、こちらまで持ってきてください。手続きを致します」
 その言葉に、思わずメアリは大きく頷いた。三冊も新しい本が借りられるのはとても嬉しい。出来たばかりの会員証を財布にしまうと、メアリは早速本棚を巡る作業に入る。
「本を探し終わったら、僕を呼んでくれ。僕はこの辺りにいるから、時間を気にしないでゆっくり選ぶと良い」
 そう言うとウィリアムは、トランクをぶら下げて、静かにメアリの側から離れていった。本棚を見られるのはその人の人格を見られるのと同じだという言葉の通り、選ぶ本を見られるのも、自分の一部を見られるようなものだから、そう言う意味で気を遣ってくれたに違いない。
 ミューディーズは別名教養文庫と呼ばれ、悪書の類いは一切無い。だから、何を借りても羞じることは無いのであるが、ウィリアムの気遣いは嬉しかった。なんというか、一人の人間として認めてくれていると解るからだ。
 ウィリアムと別れたメアリは、早速今日の目的である旅行記を探しはじめる。ミューディーズの分類は、きちんとジャンルに別れているのが便利だった。メアリはすぐに旅行記の棚を見つける。
 どれを借りようかと背表紙を見つめていたメアリは、そこで『中央アジアの神の地』というタイトルに目をとめた。中央アジアと言えば、十数年前、亜富汗斯坦(アフガニスタン)との戦争があった地域の筈だ。英国の勝利に終わったのは知っているが、以降この地がどうなったかはよくわからない。
 なんとなく気になって、メアリはその本に手を伸ばす。
 メアリが本に触れるのと、誰かの手が同じ本を掴むのはほぼ同時だった。背後から手を伸ばしていたらしい。
「あ、ごめんなさい」
 咄嗟に短く謝罪すると、メアリは本から手を離す。直後に、老人の声がした。赤みがかった、褐色の声だ。
「いやいや、こちらこそ失礼をした。この本に触れたのは君の方が先だった。だから謝らなくてもいいのだよ」
 威厳のある、けれども優しい声だった。メアリは思わず声の主を振り返る。そこには、恐ろしいほど上質の外套とトップハットを身につけた、人品卑しからぬ老紳士が立っていた。笑顔こそ柔和だが、身に纏う雰囲気は、なんだかとても強(したた)かそうだ。袖口のインクの付いた釦を見れば、書き物を良くするのがよくわかる。胸を張るような喋り方は、何らかの彼が組織の上に立つ人物だと言うことを示していた。その目からは、自分の信念は曲げないかわり、他者にどう思われても良いようだ。敬虔な英蘭(イングランド)国教会の信者のようで、教会にも足繁く通うというのは、アルバートの端に付いた十字架で解る。
 彼の隣には、フロックコート姿の東洋人の老紳士が立っていた。東洋人は背が低いと思っていたのに、その老紳士の背はかなり高い。六呎(フィート)は越えている。その東洋人は、少しカーブを描いた白木の杖を携えて、無言でメアリを見つめていた。この人の目付きも鋭く、なんだかすべてを見透かされそうな気さえする。なんだか一分の隙も無くて、用心棒のようだと思った。歩き方は勿論、呼吸にさえも隙が無いのだ。
 件の老紳士はびっくりするほど慇懃に、本棚から手にした本をメアリに差し出す。
「すまない、手を伸ばしている淑女(レディ)に気付かず、うっかりしていた。この本は、君が先に手に取ったのだから、君が先に借りるべきだよ」
「どうもありがとうございます」
 メアリは素直に本を受け取り、丁寧にお礼を言う。すると、紳士はひらひらと片手を振ってにこやかに微笑んだ。
「礼には及ばんよ。ところで、君は中央アジアに興味があるのかね?」
「いえ、私は英国以外の国のことを何も知らなくて……。タイトルが変わっていると思ったものですから、つい手に取ってしまいました」
 メアリの答えに、紳士は大仰に頷いた。
「そうだな、確かに変わったタイトルだ。しかし、かつての中央アジアはとても美しい場所で、神の地と呼ばれるに十分値する場所だったのだよ。女性達は美しい刺繍のされた布を纏い、男性もまた逞しく強い。馬を駆り、禽獣(とり)を使って狩りをする者もあれば、遊牧をする民もいる。かつてはエデンの園と並び称された地でもあった」
「……あった?」
 何故、過去形なのだろう。不思議そうに訊くメアリに、老紳士はほんの僅かに首を振る。
「あの地は、アフガン戦争ですっかりいろいろなものが失われてしまっている。きっかけは露西亜の南下政策だとしても、直接手を下したのは我等英国人だ。人々が静かに穏やかに暮らしていた彼の地の美しい寺院や風土、そして文化さえ、今はもう消えてしまった」
 悔恨がはっきりわかる声だった。数字の変化は、彼が羞じている事も示している。この人は軍人だったのだろうか。しかし、それにしては彼の体つきは、一度も肉体労働をしたことのない人種のそれだ。仮に将校だったとしても、行軍くらいはする筈だから、彼が軍人というのはあり得ない。
 一方で、東洋人の紳士は見事な体をしていた。がっしりとしていて頑健そのもの、動作も身のこなしもすべて機敏だ。頭に白い物こそ混じっているが、ただの老人では到底無かった。こちらの東洋人の紳士こそが軍人で、西洋人の老紳士はその雇い主か何かなのかも知れない。
 老人達のことよりも、紳士が話した内容の方に興味を惹かれたメアリは、思わず訊き返してしまう。
「文化って、消えるんですか?」
「消えると言うより、殺される、と言うべきだろうな。そう、戦争は文化を殺すのだ。失われたものは、二度と戻らない。帝国主義は所詮帝国主義だ。カーナーヴォン伯爵の言うところの『平和を維持し、現地民を教化し、飢餓から救い、世界各地の臣民を忠誠心によって結び付け、世界から尊敬される英国の帝国主義』などまやかしだ。そんなまやかしのせいで、印度や阿弗利加(アフリカ)、中央アジアや濠太剌利(オーストラリア)の文化が幾つ消えていったか解らない。私はそれを悔やむし、そして羞じる」
 メアリの問いに答える老紳士の声は、静かな怒りを讃えていた。帝国の臣民であるメアリには、その怒りの理由がよくわからない。ただ、彼が帝国主義を好きではなく、また、その結果も苦々しく思っていることだけはよくわかる。
 だから彼は、東洋人の老紳士と連(つる)んでいるのかもしれない。非白人種に対する英国人の差別意識は米国ほどの露骨さはないにしろ、かなりのものだ。同じ英国人であっても、身分の差で徹底した差別をするのがこの国なのだ、況(いわ)んや異邦人など、というわけである。そんな英国人の彼が異邦人と親しくするのは、反骨精神の表れかも知れなかった。
「人と土地、両方が揃ってこそ文化は継承され、後世に受け継がれる。人が滅んだ場合は勿論だが、戦火で土地を追われた場合、別の土地で代々継承された文化を守るのは難しいのだ。現に彼の国は、私達の余計なお節介のせいで、かつての文化は死にかけているのだそうだよ。サムライダマシイ、と言う思想と共にね。彼は日本のサムライなのだが、今は故あって、私の護衛をしてくれている」
 メアリの視線に気付いた老紳士はそう言うと、隣にいる東洋人を静かに見た。話題を振られた東洋人は、やや仏蘭西(フランス)訛りの英語で低く言う。
「そうだな。開国から二十余年、我が国の本来の文化だとか風習は時代遅れだと言うことで、すっかり西洋のものに取って代わられつつある。しかし、それらの葬儀は既に済ませた。売国奴の手ではなく、自らの手で幕引きが出来ただけ、まだ幾分かはましであろうよ」
 アイリス色の声は、酷く落ち着いていて、何もかもを受け入れているようだ。メアリは日本のことは殆ど解らないが、近年革命が起こって君主が変わったと言うことは知っている。この人が売国奴と言うものが、きっと政府を倒した革命軍のことなのだろう。革命は綺麗事ではないというのは、仏蘭西を見ても解る。きっと英国人には解らない何かがあるのだ。そんな国が行った、文化の弔いとは一体どのようなものなのだろう。
「文化の葬儀を……なさったんですか?」
 不思議そうに尋ねるメアリに、東洋人は少し笑った。孫娘に自慢話をするような笑みである。
「あれは、なかなかに華々しい葬式だったな。あんな清々したことは、大政奉還より十九年間ついぞなかった。別の名を天覧兜割りと言うのだが、出来過ぎなくらい巧く行った。惜しむべくは、二度と『あれ』を戦で使ってやれない事くらいだが、それでも概ね満足だったさ」
 言っていることはあまり解らなかったが、東洋人の老紳士の表情は実にさばさばしていた。自分のしてきたことに悔いなどない、そう言う清々しさだ。そんなことを言う彼が、何故、文化の滅びを嘆く白人の老紳士と連んでいるのか。
 目をぱちぱちと瞬かせるメアリに、白人の老紳士がふと思い出したように言った。
「ああ、どうも話が逸れたようだ。すまないね、お嬢さん。中央アジアは美しい土地だった。書物の中だけでも良い、それが忘れられることもなく、語り継がれればせめてもの救いだ。君のような若い少女が、その記憶を受け継いでくれたら嬉しいと、私は思うよ」
 だから君がこの本を読みなさいと、老紳士は笑って言った。
「はい、ありがとうございます」
 深々と一礼するメアリを見て、老紳士が穏やかに笑う。
「失われる時は一瞬だ。時間は巻き戻せない。『時を惜しめと、乙女たちに告ぐ(To the virgins, to make much of time)』という言葉がある。君も今の一瞬、一瞬を大切にしたまえ」
「時を惜しむ……?」
 謎かけのようなその言葉に、鸚鵡返しでメアリが呟く。その呟きへの回答は、ごく間近から帰ってきた。
 銀色の静かな声が、無感情に低く囁く。
「十七世紀の詩人、ロバート・ヘリックの詩のタイトルだ。タイトルよりも『摘めるうちに薔薇の蕾を摘み取るべし(Gather Ye Rosebuds While Ye May)』という句の方が有名だろう」
 予想外の出来事に、メアリは思わず飛び上がる。振り向くと、いつの間にかウィリアムがすぐ後ろに立っていた。
「う、ウィリアムさん!? い、いつのまに……」
 気配も何も全くなかった。あんまりにも驚いて、思わず声が吃ってしまった。しかし、ウィリアムはいつものように、無表情な顔つきと無感情な声のセットで低く言う。
「随分と長く話し込んでいるようだったから、君とこちらの紳士達とで、何か問題でも起こったかと思って。だから様子を見に来たんだ」
 自分を心配してくれる銀の声に、メアリはすまなさを覚えつつ、少しだけ嬉しくなった。自分はもう、一人じゃないと思えるからだ。だから、これ以上心配をかけまいと、慌てて首を振って答える。
「大丈夫、何もない、です。こちらの方と同時に本を取ってしまったのですが、譲っていただきましたから……」
 メアリは二人を示すと、老紳士達は軽く帽子をあげてみせる。ウィリアムもまた、帽子を取って一礼をした。相も変わらず正確無比な、きちっとした挨拶だ。
 互いに挨拶を終えた後、老紳士が笑って言った。
「どうやらお友達を心配させてしまったようだ。では、私達はこれで失礼しよう。また何処かで会えたらいいね、お嬢さん」
「はい、こちらこそありがとうございました」
 軽く手を振り別れを告げる老人達に、メアリは深々と頭を下げた。遠ざかる二人の背中を眺め、ウィリアムが小さく呟く。
「あの老人……。ただ者ではないようだ。彼は一体……」
「ただ者ではない、ですか?」
 どちらのことを言っているのかは解らないが、双方『ただ者』ではない事だけは確かだ。白人の老紳士は高貴な身分のようだったし、東洋人の老紳士は立ち振る舞いが尋常ではない。いずれにしろ、一筋縄ではいかない二人組だと思う。
 しかし、ウィリアムはそれについて追求する気はまったくなさそうだった。メアリを見て、逆に問う。
「ところで、君は今、酷く緊張しているようだ。本当に大丈夫なのか?」
 一番メアリを驚かせた張本人は、どうやらそれに気がついていないらしい。それがなんだか可笑しくて、つい、ぷっと吹き出してしまう。ウィリアムが、無表情から、きょとんとした不思議そうな表情になる。彼が表情を変えるのは本当に珍しい。それを見て、メアリが慌てて弁解した。
「あ、いえ、違うんです。凄く心配していただいてるんだなぁ、って思ったら、緊張の糸が緩んでしまって……」
「緊張の糸が切れると、君は笑うの?」
 不思議そうなウィリアムの問いに、メアリが答える。
「ええ。ウィリアムさんも、そういうことってありませんか?」
「僕は……、どうなんだろう?」
 ウィリアムは本気で考えているようだった。なんだかそれが面白くて、メアリはまた笑ってしまう。それを不思議そうに見ていたウィリアムが、ぽつりと言った。
「君は笑うと花のようだ。昔とまったく変わらない」
「……え?」
 突然の言葉に、メアリが固まった。ウィリアムはフォッグ二世のように、お世辞や社交辞令を言うようなタイプでは無いというのがわかる分、どぎまぎとしてしまう。
「君の笑顔が、やっぱり僕は好きらしい。君がこれからも笑ってくれたら良いと、そう思う」
 フォッグ二世のように、あからさまに冗談だとか、口説き文句だとわかるものならば、メアリも特に気にしなかったに違いない。けれど、淡々と告げられたその言葉に嘘や悪ふざけの色は微塵も無く、誠実さだけが滲んでいた。
 何と答えて良いかわからないまま、メアリはただ、ウィリアムを真っ直ぐ見つめる。その蒼い目は、やっぱり少し茫としていて、それでもとても綺麗な澄んだ色をしていた。空の青とは違う蒼。
 一瞬の沈黙は、何故か永遠のようにメアリに思えた。


 書籍販売部門に向かった老紳士は、貸本部門の扉を出る直前に一度だけ振り返る。本棚の前で見つめ合う、少女と青年の姿を視界に認め、ほんの少しだけ笑って言った。
「ああ、やはり忠告は野暮だったな。あれだけ素直で可愛い子なのだ、それはまぁ、周りの男共が放っておかんか」
 その言葉に、傍らにいた東洋人の老紳士が振り返る。首を傾げるようにして言った。
「私の目には、あれは恋人と言うよりも仲の良い兄妹か何かのようにも思えるがね。しかし、変わった雰囲気の娘だったな。何というか、勝手にこちら側の事情を話したくなるような、そう言う娘だ」
 白人の老紳士が同意するように深く頷く。
「ヴァン・ダイクのチャールズ一世図を見た時のような感覚に近いな。持って生まれた素養というか、総てを見透かす目というか、この人には、ありのままを告げねばならんというような、そう言う畏怖が微かにある。ああいう子は、探偵や警官の中にたまにいるよ。なんというか、あまりにこちらを見通すような目を持っているから、それに引き込まれて色々弁解したくなって喋ってしまう。あの娘が男だったら、良い警官か探偵になれるのだろうが、まぁ女性の身では、無理だろうな」
 近年、女性解放運動は盛んではあるが、未だにそれらは認められない。女王が統治する国であっても、女性の地位は低いのだ。
 二人から視線を外し、東洋人の老紳士が言う。
「あの青年も、ただ者ではないぞ。私の間合いに気付きながらも、臆せず入り込むとはなかなかだ。弟子に取ったら次朗吉をも超えるかもしれん」
「ケン殿の眼鏡にかなうなら相当のものだな。しかし、『恋せよ、汝の心の猶少なく、汝の血の猶熱き間に』という句の通り、恋する乙女は本当に愛らしい。あの子達にような若い世代には、希望だけを残しておいてやるべきなのに、しかし我等が残せるのは数々の文化の屍と、そこに立つ憎しみだけだ。まったく不甲斐ない」
 アンデルセンの「即興詩人」を引きながらのその言葉に、ケンと呼ばれた東洋人が、ほんの僅かに肩を竦めた。
「我が国でもそれは変わらん。権力の蜜は僅かであるのに、互いにそれを欲するあまり、革命軍同士が争って、革命に対する反乱まで起こる始末だ。田舎者はそういう所が非常にいかんな」
 幾分苦々しいように告げるケンに、老紳士が首を振る。
「領土を貪ることは全人類の呪いでもある。愚策を強行し、いざ事が済めば、こんな筈ではなかったと臍を噛むのが世の習いだ。彼女のそれを矯正できなかった以上、せめて少しでも長生きをし、奴らの愚行の歯止めとなるしかあるまいて」
 老紳士は苦く笑った。独り言のように小さく続ける。
「本来君主というものは、象徴的役割に限定されるべきなのだ。彼女は一度思い込んだら考えを改める事はしない。彼女は息子を出来損ないと信じているが、なかなかどうして、彼は父君の血を濃く継いでいる。派手な女遊びは治らんだろうが、外交的手腕は相当なものだ。一方で彼女の方は、表向きは聡明な風を気取っているが、メルバーン子爵やディズレーリ伯爵などの、見栄え良く、我侭が通る男が現れたらすぐにそちらに傾倒する。自分が操っていると信じ込んで、その逆、男に操られる型の典型だ。若い頃は兎も角、老いてからは益々その傾向は強くなり、今では目も当てられない。一刻も早く、彼女を退位させ、皇太子に後を継がせるべきなのだがな……」
 溜息のように嘆く老紳士を窘めるようにケンが言った。
「君主の批判は外ではやめておいた方が良いな、グラッドストン卿。壁に耳あり障子に目あり、何処で誰が聞いているか解らんぞ」
 素っ気ない忠告に、グラッドストンと呼ばれた老紳士が笑ったまま緩やかに首を振る。
「誰に聞かれても構わんよ。私はそれほど長生きをする気もない。今回の日本からの依頼が最後の仕事になるだろう。それさえ果たせれば、あとはもう、思い残すことは特にはない」
 そう告げた後、グラッドストンは嘆くような声で小さく言った。
「否、思い残した事は山ほどあるが、一つくらいは罪を精算したいというのが本音だろうか。私が生きている間、せめて、愚かしい戦争を一つくらいは止めておきたい。まったくこの国は本当に戦争ばかりが好きで困るな」
 溜息のように告げられたそれに、ケンは静かに首肯する。明らかにただの老人ではない、まるで野生の獣のような目で言う。
「そうだな。私は『あれ』さえ見つければ、特にすることもない身の上だ。貴公の護衛くらいは果たせるだろう。要人の護衛はお手の物だ。夜道で背後を気にする必要は無いから、思い切りやるが良い」
 その言葉に、グラッドストンが人の悪い笑みを浮かべた。それは、ただの老紳士の目ではない。海千山千、まさしく喰えない男の顔だった。

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