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2022/10/03

眠いけれど、YouTubeにこれから『ファン・ゴッホの手紙』を読んでその後文章を書く、と言ったショート動画を上げてしまったので、書く。『ファン・ゴッホの手紙』は読んだ。今とても手紙に関心がある。手紙は、書いている時の_今_が大事になる。_今_は、その手紙が相手に届く時には、過去になる。でも、届いた手紙を読むとき、私たちは送り主が書いていたその_今_を信じる。過去でありながら今であるもの。それがSNSにはなくなってしまっている。しかし、もうSNSのことはどうでもいい。ぼくがここで書きたいのは、ゴッホの手紙がいかにうつくしく、優しさに満ちているか。誰かがゴッホについてああだこうだ言う。その時点で、彼は無である。なぜなら、ゴッホを真に理解できる者など、現世に数人しかいないかもしれず、それもわからないのに、知ったようなことを言うそれは、ゴッホについて話しているのではなく、「ゴッホ」について話しているのであって、ゴッホについて話していない以上、彼は無となる。今はこの「」に括られたことを話す人があまりにも多い。

体がとても疲れている。運動もしたし、人とたくさん話した。もっといろんなことをしたい一方で、できない自分がいて、それでも周りから見たら僕は色々やっているのかもしれないけど、これでは・マジで・足りない。そう思って、YouTubeを活動予告・記録として使うことにした。別にしっかりとしたものだけをアップする必要はないことを、ある不謹慎系ユーチューバーから学んだ。彼は今話題の知識人を差別用語を使って罵倒する。そういうやり方ね、はいはい、となる。私は思います。まず第一に、人を傷つけるようなことは言ってはいけない。第二に、彼は知識人を罵倒するということがプロレス的に、あるいは炎上商法的に成立していると思っているが、そのような、有名な名前を悪質な使い方で利用することはその人に依存することにほかならず、自らの場を持っていないことの証で、そこから何かが立ち上がることはない。
もうちょっと頭使いな。

あなたはとても本を読んでいるでしょう、と今日言われたが、僕は全然本は読んでいない。本を読むことができると思っている人の多くは、実際には何も本を読めていない。ドゥルーズやベンヤミンやニーチェを読んでいる人たちのほとんどは、「ドゥルーズ」「ベンヤミン」「ニーチェ」を読んでいるが、ドゥルーズ、ベンヤミン、ニーチェを読んではいない。
そもそも、ここにあるデジタルタイマーについて本当には知っていないのに、ドゥルーズベンヤミンニーチェを読み、それについて書いたり語ったりすることができるものか。

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