見出し画像

2022/09/29

 Sonny Boyのヒロイン希が、常に外の世界の光を感じ、その存在を確信していること。他のだれもがそれを感じられないとしても、それが主人公長良の向かう場所となる。
 誰か一人が光を見ていればいい。それが伝われば、私たちは自らの能力を最大限に発揮することができる。光のある方へ向かうことができる。
 私たちは被害者ではない。だから被害者意識を持ち続けてはいけない。

 私たちにとって自由連想的に書くことが危険であるのなら、この四千字原稿も書き方を変えなければならないだろう。

 確かに、断ち切ることは私たちに一つの理想を教える。自由連想は連鎖的につながるということだ。スキゾフレニアの私たちはしかし、過剰につながってしまう。だから断ち切り続けなければならない。断ち切ることは、過剰なつながりを切ることであるが、それでも私たちはつながっているのだから。

 被害者の会、のようなつながりはとても苦しい。それは_被害者_として一つになってしまうことで、革命は一つになった時には起きない。
 それは間違っている、と絶えず反証を続けることが、断ち切りながらつながることとなる。

 何を書こうか忘れた。それは無意識に忘却に向かうことである。東浩紀が書いている「忘却にあらがう」という言葉も、「言葉は切るためにあるのではなく、つなげるためにある」という言葉も、今のぼくにはそのまま信じることは危険だ。

 危険なもの。というように、前段落の言葉を、全く別の領域で考えること。そうか、つなげる、というのは、同じ場所にあるもの同士をつなげるのではなく、別々の場所にあるものをつなげることだ。忘却、という言葉も、普通の意味ではないかもしれない。

 一見忘れているかのようなことも、意識すること。過剰な刺激を人は求めている。しかしそれは刺激でしかない。ペヤング激辛味というものが流行るのも、一瞬間の刺激を人は求めているからだろう。でも辛さというのは味わいではなく、辛さを忘れればそのまま忘却される。出来事を辛さで判定するのではなく、味わいの中で受け止めること。人は暴力を断固として否定するが、その否定自体が暴力的な反応であり、暴力に対して私たちは被害者でも加害者でもないあり方で受け止めなければならない。

 被害者はどこにも行けない。それは全く不利な状態である。私たちは被害者=犠牲者だろう。しかしその場所にとどまっているわけにはいかない。

 ある場所で、私は皆を裏で操っているような気持ちになった。私がある状態を名づける。するとその名づけによって状態は固まる。固まった状態に対して、状態性を感じとれる人は、それを受け入れるか、別の名付けをしてその状態を更新するか、拒否するか、しか方法がない。私はAさんのナルシズムに対して、彼のどこにも行くことができない、いや彼自らの閉じたナルシズムにしか向かうことができないことに息苦しさを覚え、それを脱却するために言葉を発したが、それは支配になっていないか。

 支配的な言葉と支配的ではない言葉の違いは、そこに解放があるかどうかだ。パズル的なものと強迫症的反復の、同じものを一致させ続けることに、私たちは落ち着くことができる。しかし、実はそのパズルは絶えず変化し、形も大きさも絵柄も変わり、はめるところが一つではないとしたら。もし同じことを繰り返していると思っていたそれが、一回一回全く違っていたとしたら。私たちはその不穏さに耐えることができるだろうか。
 解放はまず、その状態・状況を捉えることから始まる。それは支配に等しいかもしれない。しかしそこには解放源が含まれている。あるいは含ませることができる。
 私たちを支え、私たちをどこかへと向かわせる言葉。

 弱い立場の人間に、上から接することは、例えそれがやさしさのように見えても、醜いことだ。弱っている人にお兄さんのように接すること。それはあまりにも自己防衛的であり、自らのうちのその弱さに対し私たちは断固として闘わなければならない。

 常に光を見る者がそばにいることは、私を支える。そして私自身も、光を見る者となる。誰かを支えることができるとしたら、それを強く見ることである。幻視すること、それは幻覚ではなく、指標である。同じ場所でその中の幻を見ることには意味がないが、外に向けた幻、外だと_思っている_外ではなく、ほんとうの外に向けた幻視は、幻覚ではない。同じ場所で何かと何かをつなげることは、何の意味も持たない。この場所、すなわち身体のある場所と、外にあるつながるとは思えない何かをつなげること。それが解放だ。私たちは息をするために、言葉を発しなければならない。

 その場所で何ができるか。例えば_この_場所で。一つの場所でできることは限られている。断ち切る力は、場所に対して発揮されなければならない。場所、すなわち環境と自らを断ち切り、その私を別の場所・環境とつなげる。自由連想は同じ場所で行うことだ。批評にしかできないこと、それは、私から私を断ち切り、別の場所へとつなげること。

 被害者には何もできないのは、その環境・状況に対して、受け身であらざるを得ないからだ。

 私がここにいないと感じるのは、外を感じることができないからだ。ここにいない、というのは、どこにもつながっていないということ。つながることによって私たちはここにいると感じる?

 あなたと私はどこでつながっている?
 あなたはどこにいる。何とつながっている。何を見ている。ぼくをどう見ている。僕らには環境があるのか。ぼくらには場所があるのか。
 私はあなたがどこにいるかも知らないし、あなたの顔すら私は知らない。
 顔とは何か。
 ネットにおいて、名前以外の、あるいはその人が発する言葉以外の、その人をその人たらしめているものは何か。
 その人に現実があると信じることは、もうできないのか。
 あなたがいると信じるためには、何が必要なのか。

 ぼくの現実を与えること。
 ぼくがここにいることを直接伝えること。
 手紙。
 手紙とSNS的つながりの決定的な違いは、手紙には現実の場所が含まれ、時間を含み、私が含まれ、それがものとなることだ。
 私の全ての現実。iPadで絵を描くことと紙に絵を描くことの決定的な違いは、直接的であるか、間接的であるか。iPadで絵を描くと、頭の中とつながる感じがある。でもそのつながりは、異空間的である。紙に絵を描くことは、直接的で、現実的だ。
 この打ち込みも、ここで終わりにしなければならない。
 手書きだ。

 手書き!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?