存在の意味を考えた
「シニガミレコード」(じんfeat.IA) というボーカロイド曲の歌い出しにこの一節があります。
"存在の意味を考えた
ひとりぼっちの化け物は
「人なんてすぐに死んじゃう」と
呆れ顔 続けてた"
ところが化け物は、少年兵と恋に落ちます。子どももできて、幸せに暮らすのですが…少年兵は人間、いつか死んでしまいます。化け物は、「蛇の力」を集め、「終わらない世界」を作りました…そして…
この曲を含むシリーズになっている、「カゲロウプロジェクト」の世界のはじまりを歌った曲です。10代の頃よく聴いていました。これについて語るわけではないのですが、多くの人にある、「存在の意味を考えた」話をしたいと思います。
詩 「つめくさの愛」
たくさんの
無償の愛をもらって
ここまで歩いてこられた
もらった人には
返しようもない
だから
この愛が巡るように
誰かに渡したい
見返りはいらない
届いてほしい
あなたの震える背に
触れることはできない
直接声を
かけることもできない
それでもあなたを愛する人が
ここにいるよ 忘れないで
詰草の根のように
つながっているから
私には一つの
私達には千の
愛があることを忘れないで
先日、こんな詩を書きました。寝る前に即興で書いたものです。小さい頃歌った「つめくさの歌」(林光)に言葉を少し借りています。
小さい頃から、本当に人には恵まれていたと思うのです。沢山、助けてもらいました。そして助けてくれたのは、多くの「他人」でした。その中で感じるのは、一人の人や一つの場所に依存しないこと、居場所を複数持ち、行き詰まった時に助けを求められる人が複数いることが、生きていく上で必要不可欠なのだということです。
ただ、私が助けてもらった沢山の居場所や、そこにいた「他人」の中には、感謝しようにも、なにかを返そうにも、連絡先がわからなかったり、亡くなっていたりする場合もあります。ですからせめて、自分自身も、誰かの居場所の一つであり、必要な時は手を差し伸べられる人でありたいと思います。
冒頭に引用した曲では、「化け物」ははじめひとりぼっち。居場所がやっとたったひとつできたけれど、それを失うのが怖くてたまらない。ものがたりの中だけではなくて、人がこの社会で追い詰められてしまう時、少なからずそんな状況なのではないでしょうか。
「かびた饅頭」の話
大河ドラマ「おんな城主直虎」の中での話です。主人公である後の直虎、次郎法師(柴咲コウ)は、井伊家当主の一人娘。織田信長に討たれることになる、今川義元を筆頭とする今川家に支配されている中で、諸々の事情で幼くして出家することになり、物語序盤は尼として禅寺にいます。
ある日、幼馴染みであり、許嫁でもあった井伊直親(三浦春馬)が、井伊谷に帰ってきます。彼は今川家に命を狙われ、逃亡していましたが、やっと井伊の時期当主として帰ってくることができたのでした。彼は次郎法師に、還俗(出家した者が俗世に戻ること)して一緒になろう、と想いを伝えます。しかし、考えた末に次郎法師が出した結論、それが「かびた饅頭になってもいい」でした。
かびた饅頭とは。ドラマの中で、南渓和尚(小林薫)が、悩む次郎法師にこんな話をします。
ある王が、二人の大臣にそれぞれ2つ饅頭を渡し、一つは食べさせた。もう一つを、大臣の一人は腹をすかせた子どもに恵んでやった。もう一人は、饅頭をとっておいてかびさせてしまった。王はどちらかを大臣として続投させ、一人を罷免した。王に選ばれたのはどちらか。
選ばれたのは饅頭をかびさせてしまった大臣でした。どういうことなのか。この2つの饅頭を、井伊家の後継となりうる者、にあてはめて、次郎法師(直虎)は答えを出したのです。一つは逃亡していた直親。もう一つは、自分。直親も次郎法師も、正統な井伊家の血を引く者です。乱世において井伊家を守るためには、もしも直親になにかあった時、家を継ぎ、守ることができる可能性を一つでも多く残しておく必要がありました。ですから次郎法師は、自ら「かびた饅頭」になることを選びます。物語では非情にも、直親という饅頭を今川が葬り、次郎法師という饅頭は、かびることなく直虎となるのですが…
直虎に関しては過去にこんなマンガも描いてます。
さて、「存在の意味を考えた」話に戻ります。私は、饅頭を2つどころか沢山持っている必要があると思っています。この饅頭とは先述の「居場所」や、助けてくれる「他人」の存在です。
人を頼る時、どこか申し訳ない気持ちがあったりします。私自身、自分の持つ沢山の饅頭の中から、誰かに頼ろうとする時、いつも迷います。しばらく連絡してないしな、とか、忙しいのに申し訳ないな、とか。それでも連絡すると、その人たちは快く話を聞いてくれたり、手を差し伸べてくれます。
一方頼られる方となると、誰かがふと思い出して連絡してくれたら、私はとても嬉しく思います。お金が絡む話はまた別の問題もありましょうが、話を聞いたり、私より役に立ちそうな他の誰かに繋いだり、少しでも役に立てたらと思います。
存在の意味を考えてしまう時
それはさみしい時
誰かからの暴力的な力や言葉
自分自身を肯定できなくて
傷ついた時
世界にはもう誰もいなくなる
たったひとりだ 絶望だ
いいえ 思いだして
ここにいるよ あなたの心の隅に
私の記憶は ありますか
今はどんなに遠くても
世界にはあなたを愛する人が
あなたの愛する人が まだ
存在の意味は
誰にもわからない
ただ存在を
私は、愛している
まとめ
結局何が言いたいのかというと。
何か今ひとつ、私の中で釈然としないところがあって、今回はそれを書いてみたようなところもあるので、まとまらないかもしれませんが、まとめます。
本当に味方のいない人が、この世にはいるかもしれません。けれどもその人たちを救いたいと思いつつ、どうやっても差し伸べようとする手が届かずに、もどかしく思う人も確かにいます。「るろうに剣心」(和月伸宏)というマンガで、主人公剣心はこう言います。
剣は凶器 剣術は殺人術
どんな綺麗事やお題目を口にしても、それが真実
薫殿(ヒロイン)の言ってること(人を活かす剣)は、一度も己れの手を汚した事がない者が言う
甘っちょろい戯れ言でござるよ
けれども、拙者はそんな真実よりも
薫殿の言う
甘っちょろい戯れ言の方が好きでござるよ
私も甘っちょろい戯言の方が好きです。あるいは吉田松陰はこう言いました。
吾に軽信の癖あり
すぐに人を信じてしまう、と。そして最期まで信じようとします。安政の大獄に連座してその命の尽きる直前まで。言葉でわかり合うことができるはずだ、と。そして「留魂録」として言葉を遺します。
私もここに言葉を残しておきたいのです。誰かが苦しい時、あるいは私が苦しい時、自分が決して一人ではないことを、思い出せるように。
存在の意味なんて、考えなくていいですから、「ここにいるよ」と言ってください。私も、ここにいます。誰かを思い出してください。誰かに思い出させてください。とっておいた饅頭のこと。
現在放送中の朝ドラ「おちょやん」ではこんな台詞がありました。
生きるってしんどいのう。しんどいのう…。
けどな、あんたは一人やあれへん。うちがいてる。
そんなんわかっとるわ!それでもしんどいもんはしんどいねん!(私の関西弁は似非です)
そりゃそうでしょう。私だってそういう時はありますし。誰にもわかるもんかと。こればかりは理屈の通る話ではないと思います。あるのは個人の思いばかりで。他人の生き方です。最終的に口出しはできないのかもしれません。
仕方ないので、ひとつ断っておきましょうか。
私は、手を差し伸べてしまいたくなるんです。余計なお世話かもしれません。それでも、その余計なお世話に、私も沢山助けられてきたものですから。これは私の恩返しなのです。
なんか恥ずかしくなってきたな。はい。以上です。
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