『女のいない男たち』書評 ジェンダーを超越する珠玉の恋愛小説を描く作家・村上春樹

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村上春樹と宇多田ヒカル

 村上春樹というと、毎年ノーベル賞候補に挙げられるほどの地位を築いた作家であると同時に、アンチも多い。言われがちなのは、「男に都合がいい」「気取った文体」「性描写がつらい」などの意見だろうか。
 今回、映画『ドライブ・マイ・カー』がアカデミー脚本賞を取ったことを機に、原作の『女のいない男たち』を読んでみた。
 驚いた。村上春樹が世間からいかに誤解されていて、一般のイメージから実際は、いかにかけ離れた作家かということを実感した。
 村上春樹は世間とのイメージとは違って、本当に真摯で誠実な作家だ。この作品から感銘を受けた。

 『女のいない男たち』は短編集だ。映画のタイトルにもなった『ドライブ・マイ・カー』という作品も収められている。
 読んでいて宇多田ヒカルの『One Last Kiss』が流れてくるようだった。

 「止められない喪失の予感」
 
 『One Last Kiss』の1フレーズ。そう、『女のいない男たち』のテーマは「喪失」である。

 登場人物の男たちは、みなそれぞれの「女」のことを愛している。しかし、男たちは彼女を失う。
 それは抗いようのない運命であり、避けられない出来事。まさに「止められない喪失」…。
 どんなに愛していても、愛し合っていても、彼女たちは男からいなくなってしまう。

抗いようのない運命、受け止めきれない喪失

 短編集の中で私が一番好きなのは、『イエスタデイ』だ。登場人物の「木樽」という男は、東京出身であるにも関わらず、後天的に関西弁を学んで、まるでネイティブのごとく喋ってしまう、どこかズレた奇妙な男だった。
 木樽には長く付き合っている彼女がいた。奇妙なことに、木樽は主人公の「僕」に、その彼女と付き合ってあげてくれと頼むのである。
 なぜ、木樽は最愛の「彼女」について、そんなことを「僕」に懇願してくるのか…。

 ここからは、私の解釈である。
 木樽と「彼女」は愛し合っていた。それは紛れもない事実だ。しかし、木樽は、その関係が、とある理由から壊れそうになっていることを、敏感に感じ取っていた。
 彼女がもし、ほかの男に抱かれることになるのなら…
 木樽は「僕」のことを信頼していた。見も知らずの男に取られるくらいなら、「僕」が相手の方がいい。
 そう思って木樽は「僕」に「彼女」を紹介する。

 しかし、運命に抗うことはできず、木樽の予感は当たってしまうのだ。「彼女」はほかの男とセックスしてしまう…。
 木樽は、こうなることをわかっていた。そして、この事態を止めるために、それがどうにもならないことを知りながら、「僕」に「彼女と付き合ってあげてほしい」なんて無理難題を、頼むのである。
 そして、事態を悟った木樽は消えてしまった。

理解できないものを、理解できないままイメージ化する作家

 『ドライブ・マイ・カー』『独立器官』も、そうだ。男たちは愛する人を失うことから、逃れられない。そして、その喪失を抱えながら生きていくことになる。
 その「男たち」への眼差しの優しさに、村上春樹という作家の核があるように思う。
 珠玉の恋愛短編集。それが『女のいない男たち』という作品の表の顔、言わばA面(前半の3作品)である。
 B面(後半の3作品)では、この「いなくなった女たち」をイメージすることを試みている。

 A面でもそれは少しだけ語られていた。「なぜ女は突然いなくなるのか」、その疑問。
 『ドライブ・マイ・カー』では、それは「病のようなもの」と名付けられた。『独立器官』というタイトルでは、まさに女にはその「独立器官」がついていると語られた。
 
 村上春樹は、彼女たちがどうして彼らの前からいなくなったのかを、「理解」しようとはしない。しかし、それを理解できないものとして、理解できないままイメージ化することを試みる。
 女が駆動するその姿、それが最も肉付けされた作品が『シェラザード』だろう。
 片思いする相手の家に忍び込む女子高生のときの自分。今振り返っても、なぜ自分がそんなことをしたのかわからない。
 村上春樹とは、そのような描きようがないものをイメージ化する作家という側面もあるのだろう。

異性愛を描きながら、異性愛を超えた愛の姿

 先にこの作品のBGMに宇多田ヒカルの『One Last Kiss』が合うと私は描いた。それは「愛する人の『喪失』」がテーマだからだ。
 あと、私が今回この本を読んで思い起こした作品がもう一つある。それは武宮恵子の『風と木の詩』だ。
 『風と木の詩』は少年同士の同性愛の作品だ。なぜ、この作品を思い起こしたかというと、この作品も主人公のその愛し合っているという内面を直接的には描かないからだ。
 もちろん、愛していることの表現・行動は描かれるのであるが、その「愛情」という内面は描かれない。
 『女のいない男たち』も、そうだ。男たちの女に対する愛情は、直接的には描かれない。
 この点で、『女のいない男たち』と『風と木の詩』は文体が似ている。小説とマンガという違いはあるが。

 『女のいない男たち』は、『One Last Kiss』と『風と木の詩』と通じるものがある。
 宇多田ヒカルはノンバイナリーを広言している。そこから彼女の描く恋愛は異性愛規範を越えていると言ってもいいだろう。
 そして、『風と木の詩』は少年同士の同性愛の物語だ。

 何が言いたいか。『女のいない男たち』は基本的に男性と女性の異性愛の恋愛の姿を描いている。
 しかし、そこで描かれているのは、ジェンダー規範を超越した恋愛の姿と通じている。
 村上春樹とは、異性愛の恋愛を描きながら、実はジェンダーの規範を超えた、真の愛の姿を描く作家なのではないか、いうことだ。
 最愛の人を失うこと。その喪失。埋められない穴。そのことの大きさに、男も女もないじゃないか。

 村上春樹の誤解されやすさが、ここにある。村上春樹は異性愛を描きながら、実はそこにはジェンダーに捉われない、ある種ジェンダーを超越した恋愛の姿を描いているのだ。
 村上春樹作品の中にあるジェンダーの撹乱。そのことが、村上春樹という作家・作品への違和感や誤解を引き起こすのではないだろうか。
 今回『女のいない男たち』を読んで、そんなことを思った。他の作品も読んで、この仮説について検討していこうと思う。

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