『ティファニーで朝食を』批評 女性性と消費社会を描いた哀しく儚い物語
トルーマン・カポーティ著、『ティファニーで朝食を』を読みました。儚くて哀しい物語のこの本が、いかなる物語であるかを分析していきたいと思います。
この本は、「女性性」と「消費社会」について描いた本です。なぜそう言えるのか。まず、そのことについて解説していきます。
「消費社会」が「女性性」に解放をもたらした
唐突な説明かもしれませんが、産業化にともなって、まず解放されたのは「男性性」です。それまで男性は封建的な「家」に閉じ込められた存在でした。しかし、産業化が進むと、男性は「企業」に「雇用」されるようになります。そのことによって男性は「家」とは関係なしに生計を立てることが可能になり、「家」に従属することを逃れ、そこから解放されるようになるのです。
しかし、産業化社会に進出できたのは「男性」だけでした。「女性」は相変わらず、家庭に従属する存在として、家の中で押し込められたままでした。家庭内労働に従事するしかなかったのです。
しかし、女性にとっても「自由」と「解放」を得る手段が現れます。それが「消費社会」です。
身を着飾るためのアクセサリー・洋服や、おしゃれなカフェ、ブティック。それらを消費することにより、女性たちは自己実現する手段を獲得していくのです。
ホリーもそんな消費社会で自己実現を夢見た一人の女の子です。ニューヨークの大都会で、セレブの仲間入りをし、女性として立身出世をしようとする一人の女性なのです。
しかし、本を最後まで読めばわかるように、そのホリーの夢は叶うことなく、儚く散っていきます。大都会の中で、彼女の夢は幻となってしまうのです。
この「女性性」の夢が「消費社会」の中で儚く散っていくという物語を描いた作家が日本にもいます。岡崎京子というマンガ家です。『pink』あたりがそれにあたるでしょう(手元にないので確認できないのですが、多分『東京ガールズブラボー』も)。
『ティファニーで朝食を』も、この「女性性と消費社会」をテーマとした数ある作品の一つなのです。
大都会でセレブになることを夢見て、自由奔放に振舞うホリー
ホリーは作中で「まがいもの」でることが何度か示唆されます。彼女はセレブになりたいと思っているのですが、その出自は全くセレブではなく、元々は田舎の貧乏な家に生まれた女の子なのです。
その境遇はかなり恵まれていなかったようで、彼女は幼少の頃から男性の相手をしなければいけなかったことが示唆されています。
ホリーは大都会で自己実現したいと思い、ニューヨークにやってきます。そしてそこでセレブになるべく、様々なパーティーに出席します。結婚相手の男性を探すためです。
結婚相手はお金持ちの男性であることが最低条件。本当にその男性のことを好きかどうかは別。
主人公の青年は、ここでホリーの恋愛対象からは外れます。彼はまだデビューもしていない、名も知られていない作家志望の青年です。お金も当然ありません。だから、ホリーは青年を選ぶこともない。青年もそのことをよくわかっています。
大都会の中で、彼女の夢は儚く散った。
彼女はセレブになるべく、周囲の人間を振り回し、自由奔放に振舞います。しかし、そんな彼女も都会の中ではちっぽけな存在です。その美貌をギャングに利用され、彼女の意図しないところで伝言役として使われていたのです。そのことが原因で、彼女は逮捕されてしまいます。
そして物語の終盤、彼女は妊娠していました。結婚を予定していた相手の男性の子どもです。彼女はその子を流産してしまいます。
それは主人公の青年が乗った馬が暴走するのを止めるためでした。ホリーは主人公を助けるべく、ムリをしてしまうのです。
逮捕後、ホリーと主人公が再会したのは、精神病院の中でした。彼女は精神疾患も患っていたのです。
彼女は、都会の中で懸命に夢を追い求めながらも、破滅へとその身をすり減らしていくのです。
ホリーの幸せを願わずにはいられない
主人公が乗った暴れ馬をホリーが止めたそのシーン、ホリーは思わず、主人公の顔にキスをします。
この二人の関係はずっと、それが恋愛関係であるとは描かれませんでした。キスをしたからと言って、本当はホリーが主人公のことを好きだったかどうかもわかりません。しかし、主人公とホリーの間には、この物語の中では特筆すべき深い信頼関係があったのでしょう。
ホリーはその後、どうなったのでしょうか。どこか遠い国で元気に過ごしていることも示唆されています。読了後、僕はホリーの幸せを願わずにはいられませんでした。彼女は「幸せ」になりたいと願っています。彼女にとってその「幸せ」の象徴が、「ティファニーで朝食を取る」ことでした。
それは、今を生きる多くの人が持つ、ささやかな「幸せ」の姿と何が違うのでしょう。
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