高野友治語録(3)

よくよく考えてみると、天理教の信仰の主旨は、神の世界を知り、神の思いを知り、神のふところに安らかに生活することではなく、神の世界を知り、神の思いを知って、その思いを、人間世界に顕現するところにあると思う。(中略)
 神としても、人間に神の世界を見せ、神の思いを知らし、神の世界に安らかに生きてくれ―それもあると思うが―それだけではなく、むしろ人間の世界の泥海中に入っていって、その泥海の中に、よふきゆさんの世界を作ってくれ、という希望があるのではないかと思うのだ。

『神の出現とその周辺』p.88

心に自由が与えられているから、人間が何千万人いても、何十億いても、心はちがう。
 それでは、心の本体である魂は同じものか違うものであるか、というなら、もともと同じだったと思うが、人間生れかわり死にかわって、心を使っている間に、使い方がそれぞれ違っている故に、本体である魂も違ってきていると思う。
 だから神の思いと人間の思いとは違うのである。また人間それぞれにみな違うのである。それを神さまが許されているのである。その思いが象(かたち)を創くる。人間は神が思いつかないような思いをし、神が思いつかなかったような象を創り出してゆく。
 それを創造者なる神が楽しまれるのではないか。

『神の出現とその周辺』p.92

この世は「子の世」だという。子とは神の子のことであり、人間のことである。この世は人間の世の中だというのだ。神は人間の世界には出て来ないのだ。人間を思うままに楽しませ、喜ばせる世界だというのだ。人間にまかされた世界なのだ。
 神は人間の世界の背後におられるのだ。人間の目には見えないが、人間の側においでになるのだ。人間の肉体に入り込んで、人間の思うように動くように働いて下さるのだ。神と人間との関係はこのようなものだと教えられる。
 神は人間だけでなく、宇宙に遍満して宇宙を運営している。

『神の出現とその周辺』p.93


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