言葉は道具

以前、基礎講座英語の講師として所感をどこかのニュースレター記事用に執筆したことがあります。それをここに掲載したいと思います。いつ執筆したのかも記憶が定かではございません。

 数年前、東南アジアからお越しなった女性の基礎講座を担当させていただきました。元々、その方は別席を運ぶために来られたのですが、母国語でのお取次はなく、英語でのお取次を希望されました。

 ところが、実は英語もお分かりにならず、結局、別席を見送り、代わりに受講されたのが基礎講座でした。

 当時の基礎育成課長との相談で、初席のお誓いの言葉を分かりやすく丁寧に説明することになりました。

 親神様、教祖、ぢばについて易しくかみ砕いて話したのですが、なかなか通じません。それでも根気よくひとつ一つを丁寧に説明しました。ともに困難な問題に立ち向かったことで、最後にはお互いに言葉を交わさずとも気持ちが通じ合っているような感じになり、とても喜んでくださいました。

 それまでは、原稿に忠実に話すことを心がけておりましたが、このことがあって以来、教祖が人々に分かりやすいように心を砕いてあの手この手で教えを伝えられたことに倣って、受講者に合わせてその都度、話し方を変えるように心がけるようになりました。

 言葉は講師の道具に過ぎません。その道具を使って、教祖の親心をお伝えることに力点があると遅まきながら気づかせていただきました。

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