高野友治語録(2)

教祖中山みきが、神の思いを人間に示されたが、言葉=文字で示されたというより、行い=実践において示された方が多いのではないか。(中略)この事の中にも、天理教における神と人間との関係が、親と子の関係であることが窺い知れると思う。神は人間に強制はされぬのである。

『神の出現とその周辺』pp.16-17

天理教の昔の信者たちは言っていた。「三分さとして、七分は本人のさとり」と。本人に悟らせることに重点をおいて、先人は教理を説いていた。

『神の出現とその周辺』p.17

日本の場合、女一人で生きていける仕組みがなかった。女一人でまともに生きていくことは至難の業とされた。(中略)そんな日本の社会構造だった。その社会構造の奥に、それをそう在らしめている精神構造があったのだ。男尊女卑の精神構造があったのだ。

『神の出現とその周辺』p.23

あえて言うなら神は日本人だけの親神ではない。世界人類の親なる神である。親神の教えは日本人だけに対する教えではなく、世界の人類に対する教えである。そうすると、親神の教えは、世界の人類がひとしく聞いて成程と思い、納得する教えであるはずだ。

『神の出現とその周辺』p.27

よふきゆさんの世界は、誰がつくるのか、神がつくるのか、人間がつくるのか。人間がつくるのである。神は人間につくってくれと言われる。人間が一生懸命に努力したら、神がかげから手伝ってあげようと言われる。人間が二分三分働けば、神が七分八分足して、十分のものにしてあげようと言われる。

『神の出現とその周辺』pp.35-36

もっとも人間の方は、神のはたらきを無視して、自分がみんなやったように思っている。しかし、それでも神は文句を言われない。ただ神のはたらきを知って欲しいと言われる。だから礼をせいとは言われない。礼をする心があるなら、隣人をたすけてやって欲しいと言われる。そして、みんなが手をつないで、神のはたらきを喜び、勇んで生きられる世にして欲しいと言われる。この神の思いを知ってくれと言われるのだ。

『神の出現とその周辺』p.36

天理教の信者たちは、人間の生れかわりを固く信じるようになった。そうすると人間は一ぺん限りという考え方がなくなる。生れかわり死にかわって、永遠にこの世に生かしてもらうのだという考え方になる。だから人間がおたがいに、一代々々とこの世をより善い世の中にしようという気持になる。今生苦労しても、この世を善くしておけば、来生はその善い世の中に住まわしてもらえる、という気持になる。
 信者たちはそういう信仰に生きた。社会一般の人々から、馬鹿だ、阿呆だと言われても、人々にたすかってもらいたい、みんなが喜べる世の中にしようと努力した。
 たしかに変わっていた。
 これが一般社会の人々から反対攻撃された大きい理由である。
 だた、教祖をとおして、神さまの世界を見せてもらい、不思議を見せてもらい、人間の学問より遥かに優れた世界だと信じ込み、社会から何を言われても意に介さなかった。
 これが天理教が発展した一番大きい原因だと思う。

『神の出現とその周辺』p.45

教祖にお会いして、教祖のお顔を拝している間に、神さまの世界にはいっていったものであろう。そして神の思いの世界を知り、神の思いに添う心になっている間に、悩みはおのずから消えてなくなったものと思う。
 教祖を拝んでいる間に、そこに神さまの世界が展開し、いつの間にか自分が神さまの世界にはいっているのだろうと思う。

『神の出現とその周辺』p.46

天理教の信者はどうして、教祖を慕うて集まって来たのか。
 その大きい原因は、教祖をとおして神の世界を知ることが出来た故だったと思う。一般に教祖伝を読むと、神の世界の、幻想のことは書かれておらないで、教祖が、不思議に人々の病気をたすけてあげられた故、たすけられたものが、その喜びのあまり、教祖を慕って集まったように書いてある。
 私は、たすけられた喜びよりも、神の世界を知る喜びの方が、はるかに大きい喜びであったと思うのだ。神の世界を知る喜びは、いままで誰からも聞いたことのない喜びであり、見せてもらったことのない喜びなのだ。それを目の前に、教祖によって見せてもらえたのだ。神を知る喜びが大きく、そのために病をたすけられた喜びは、消えて見えなくなっていたのではないか。
 神の思い、それが具体的にどんな形になって現われているのか、天地自然の中に、どのようにはたらいているのか、作用しているのか。人間の身体の中にどのように働き、どのように作用しているのか。

『神の出現とその周辺』pp.48-49

人間の世界を神さまの世界が包んで、いろいろ作用していると信ずる。だが、それだから神さまの世界が尊くて、人間の世界はくだらん世界だと思っていない。人間にとって人間の世界に忠実に生きることが一番大切だと思っている。
 ただ人間が神さまの世界を知らないと、たとえば、大きい大きい水の流れの中に船を浮かべて流れていくおうなもので、この流れは何処へ行くのかは、何のために流れてゆくのか、自分はどう自分の生き方を方向づけたらよいのか分からんままに生きることになるのではないか、と思うのだ。
 全体を知って自分を考える。
 神を知って人間を考える。
 それが自分に忠実なる所以であり、神の望み給う人間だと思うのである。
 私は神の望み給う人間として生きたい。神の望み給う人間の生き方は、この方にあるのではないかと思っている。

『神の出現とその周辺』pp.53-54

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