高野友治語録(4)

神は世界中の人々をどうしてもたすけたいと思っている。人間は自分の周辺のことしか考えない。自分の病気災難の、どこにどういうほこりがあってこうなったであろうか、とそんなことを考えている。神の世界たすけという、大きい大きいみ心を考えようとしない。神の心のいかに切なるものかを考えようとしない。それが「思わく立たん」と言われる理由であろうかと思う。

『神の出現とその周辺』p.96

また、明治十九年二月、大和の心勇講のものが何十人かして、おぢばにお詣りし、豆腐屋の二階でおつとめをした。当時おつとめをしたらいけないと、警察から連れていかれることになっていた。側のものは大へん心配していた。だが教祖は、
「心勇講は一の筆やな」
とお喜びになっていた。果して警察がやって来、心勇講のものは蜘蛛の子散らすように逃げてしまい、教祖が櫟本警察分署に拘留されて、冬の二月の寒さの中、十五日火の気のない警察署に御苦労になった。
 教祖はそのことはお分かりになっていたと思うが、その中で、信者たちの勇む姿を喜んでおられ、
「心勇講は一の筆やな」
と讃められたというのだ。
 自分のことを考えないで、皆が喜ぶことを自分の喜びとする。それが、神の子の人間の生き方であると教えられていると思う。

『神の出現とその周辺』p.99

信者が出来たという。神の立場からすると、いんねんのあるものを寄せたのだという。いんねんとは人間のかかわり合いとも取れるが、神が、よふきゆさんの世界づくりに必要なものという意味の方が強いと私は思う。
 尽し運んだという。神の立場からすると、そうしなければならんいんねん事情があってそうなったのだという。いんねん事情とは、過去のことも考えられるが、世界たすけのためという未来づくりの意味もあると思うし、その方が強いと思う。

『神の出現とその周辺』p.104

形の上の苦しみは限度がある。心の上の苦しみには限度がない。人間の心の中には、怨み、ねたみ、呪い、憎しみ、飽くことのない慾、欲しい、惜しい、可愛い、腹立ち、高慢、いろいろの悪が渦をまいて、自分も苦しみ、ひとを苦しませている。(中略)
 人間の世界で、心の奥にある感情の泥沼が一番怖い存在ではないか。ミシェル・フーコーの言う「狂気の世界」なのだ。心の狂気が現実の狂気の世界を創り出すのだ。

『神の出現とその周辺』pp.122-3


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