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アート作品等の展示方法とその機能に関するメモ書き

※2022年1月23日 主にスチレンボードの使い方について本文に追記
※2022年8月1日 スチレンボード等について本文に追記

更新履歴

作品の展示方法も作品の一部である

武蔵野美術大学大学院造形構想研究科に入学して興味深いことのひとつに、教授陣と美術系学部出身学生の「展示方法に対するこだわり」の大きさがあげられる。ここでいう「展示方法」とは、特定の作品について観測者が当該作品にとって効果的に観測するためのあらゆる方法ないし措置を意味する。空間や媒体における作品本体の設置方法やその附属物の設置方法、台座や敷物、掲示の態様のほか、視覚的又は言語的なアナウンスの態様や、作品本体に係る「キャプション」と呼ばれるタイトルや解説文などをすべて含む。

造形構想研究科では、デザインの社会課題に対する応用のための授業のほか、いわゆる伝統的な純粋美術に対する教養の習得のため、「造形言語リテラシー」と呼ばれる一連の講義群(選択科目)が存在する。「造形」と呼ばれるものが美術=アート及びデザインを意味しており、「造形言語」とは、自然言語よりも広く、美術的ないし視覚的な言語のことを意味している。この授業では、特定のテーマで作品を制作することが多い。そして、特に専門的な美術教育を従前受けておらず、また、美術系のコミュニティに所属したこともない者にとっては、作品の展示方法よりも作品本体の制作に対して意識が向きがちである。しかし、作品の講評においては、作品と同程度とまでは言い過ぎかもしれないが、実のところ、作品の展示方法に関するコメントもとても多いのである。余談だが、私は、過去に某広告代理店出身の方の指揮の下、マニュアルに従って看板を置くなど、イベント会場の設営や運営に関わったことがあるが、マニュアルに描かれた看板の角度と実際の看板の角度が微妙にずれているだけでとても怒られた記憶がある。作品の展示方法と同視してよいかどうかは微妙だが、現場はそれくらいにシビアに見ているということを想像するに難くない。

展示方法に関するコメントが多いことは、「造形言語リテラシー」の授業以外の授業でも同様である。おそらく美術系コミュニティに共通しているものと思われる。某学科では展示スペースの取り合いになることもあるらしいと聞く。最初から展示スペースが機械的に割り振られているわけではなく、そもそもそうした機械的な決定方法を是としないようだ。それくらいに展示方法に対する関心が高いといえるのである。誰かが言っていたが「作品の展示方法も作品の一部である」というわけだ。

以上につき、私は、これをそのまま率直に「作品の展示方法も作品の一部である」という定式として理解することにした。作品が制作者の意図した意味を伝達するものであるならば、展示方法もまた制作者の意図した意味を伝達することに寄与するものであると考えられる。もちろん、こうしたことは美術系のバックグラウンドを持った者にとって感覚的には当然のことであろう。しかし、そうでない者に対していくらかでもそれが伝えられれば、この記事としては目的を達したといえる。というより、私個人のためのメモ書きを公開しているものと思ってほしい。私が恥をかいて言語化できることならば所属研究科の趣旨に鑑みて喜んで身を投じようではないか。

私としてはアートないしデザインが体系化(突き詰めると、一種の再現可能性をもったアルゴリズム化)に馴染むとはまったく考えていないが、実践と定式化は、自然科学とは異なる方向性でひとつの科学であるための条件であると思う。それをデザイン的な文脈での「アブダクション」や「哲学」と呼ぶかどうかはともかく、この記事もそうした観点から書いていく。

実際にどのように展示するか

展示方法論の体系はない

ところで、実際にどのような展示方法が考えられるかという点については、素朴な経験論に依拠した細かい技法論が断片的・伝聞的に認められるだけで、今のところ体系だった情報を探し出せていない。きっとどこかにあるのかもしれないが、見つけ出せていない。「展示方法も作品の一部である」ことからすると、展示方法の作品本体への依存性が極めて大きいことが原因のひとつであろう。極論すると、作品の数だけ展示方法も存在するということである。「作品の展示方法は作品本体に従属し、独立した意味を持たない」と言い換えてもよいかもしれない。絵画なのか、写真なのか、モノとしてのプロダクトなのか、デジタルなのか、そのジャンルの違いだけでも、展示の方法の傾向は大幅に異なるとも思われる。しかし、本当に何もないと考えてよいのだろうか。

教授陣の講評から展示方法の原則を抽出するのは難しい。講評に価値があるのは自分の作品に対する講評だけだと思われがちだが、むしろ他人の作品に対する講評と突き合わせることで理解できることもある。そうした観点から講評を注意深く聞いても、原則を打ち立てることはなかなか難しい。それでも、「作品の展示方法も作品の一部である」ことを基礎に、いくらかとっかかりは見出せないではない。

作品には制作者の意図が込められている。換言すれば、作品は何らかの意味表象を狙った装置である。「無意味/ナンセンス」も、ひとつの意味であると考えられる。そうすると、「作品の展示方法も作品の一部である」ことから、作品を意味を伝達する装置と見立てたとき、展示方法の機能は、意味のノイズを削減する方向に機能するか、隠喩や換喩を媒介して意味を増強する方向に機能するか、の2通りが考えられる。そして、これらは、あくまでも作品の意味表象を調整する限度でしか役割を果たさないし、果たすべきでもないものであると思われる。

【論点1】アートは制作者の意図する〈意味〉を伝えるものなのか?
これに対して、美術評論家の一部からは、作品は制作者の意図した意味を伝えるものではない(制作者から切り離された作品自体に豊饒な意味がある)だとか、作品において重要なことは頭の中にある意味ではなく身体的な体験なのだとか、そういった批判がなされることがある。むろん、それらの指摘はまったく妥当なところである。もっとも、この記事の役割としては、造形の専門家でない社会人に向けてそのあたりをあえて言語化していくことにあり、あえて意味表象の審級ないし土台に乗せるならばいったいどうなるかということを重要視している。この点で、伝統的なアーティストや美術評論家の発想や価値観とは大きく相違することは想像に難くないというか、この記事の試み自体に野暮なところがあるが、これはアートというよりも現代的なデザインの要請(組織やチームにおける意味の共有や形成の要請)を踏まえたことによる帰結であることをご理解願いたいと思う。

展示方法の機能1:意味の削減

まず、意味表象を削減する方向に機能する技法について検討する。平たく言いかえれば「余計なものをつけるな」とか「なんでこんなものをつけたの? 何か意味があるの?」とかである。シャネル的に言えば「引き算」である。もっとも、これは字面で読むよりも相当に難しい。

典型的には、観測者の作品に対する視線上に存在する遮蔽物を除去することや、観測者の視界内に余計な要素が入り込まないようにすることがあげられる。隣の作品との物理的間隔の置き方はもちろん、その作品自体のキャプションとの物理的間隔の置き方も問題となりうる。これらは観測者の視覚を通して光学的にノイズが入ることにより作品の意味表象が阻害されないようにするための考慮事項である。桿体細胞や錐体細胞の働きなどとも関わってくることになる。さしあたりは、制作者が意図した意味表象を純粋に伝達ないし再現できればできるほどよいということであると捉えておきたい。

さらに、意味のノイズは必ずしも観測行為との関係で直接的に問題となる要素に限らない。制作者が作品展示においてよかれと思って置いた附属物や敷物などが、観測者にとって余計な意味を表象させ、又は制作者の意図しない意味を表象させることもありうる。作品を置く敷物の色が黒なのか赤なのか白なのかで作品の見え方が変わり、観測者による意味表象に影響を与える。

このように、作品の展示方法の第一次的な機能は、作品本体の意味を効果的に伝達することにあると考えることができる。

【論点2】ビジネスにおいて価値提供方法が変動する場合
実社会に普及する BtoB SaaS などは、次々と開発を進めていき、ひとつのサービスに機能をさらに付け加えることが通常である。BtoB SaaS の定石のひとつでは、事業の初期段階で「エンタープライズ」と呼ばれる大手企業に高単価で売り込み、経済的基盤と実績を得て、次に、より大きなシェアを占めようと企業規模に応じて機能を削減した廉価版をリリースすることを行う。これが「サブスクリプションモデル」であり、特定の機能と課金が「セル」と呼ばれるひとつの対応関係の単位として把握され、顧客はセルを単位として必要な時に必要な機能だけを購入することができるわけである。ここではセルを単位とする価値提供方法の変動が発生する。
また、サービス本体の売り方について、機能的な側面から、マーケティングからカスタマーサクセスまでをサービス本体の一部とみなす考え方はそれなりに定着している。このうち、たとえば、カスタマーサクセスは、顧客のライフ・タイム・バリューに応じてハイタッチ、ロータッチ、テックタッチの支援に分化する。多くの BtoB SaaS の重要課題のひとつは導入後の顧客企業内部におけるマネジメントの機能不全であり、顧客側が自力で解決することが通常は困難であるため、SaaS というよりもコンサルティングサービス化していく場合もある。ここでも、価値提供方法の変動が発生しうる。
こうした場において、サービスデザインとして統一的な意味を持たせることをどのように理解し、そしてそれをどのように伝達するか、検討の余地があると思われる。とりわけ、日々変化する有機的な組織の中で、具体的にいかなる部署ないし担当者が、具体的にいかなる方法をもって、サービスとしての統一的な意味生成と伝達の役割を担えるかが現実的な問題となる。

このコーナーをこの記事のノイズとみるか一部とみるか、それが疑問だ。

展示方法の機能2:意味の増強

次に、意味表象を増強する方向に機能する技法について検討する。ただし、これは意味ノイズの削減と表裏の関係にあり、制作者からすれば、意味表象の増強として積極的に展示方法を使っていく機会とみなせるかどうかの認識論的相違に過ぎない。「これを使えばもっと作品をよく見せられるのでは?」ということである。

典型的には、作品の位置(高さ)があげられる。作品の観測者は人間であるため、人間の視線がひとつの基準となる。つまり、作品の高さと人間の目線の高さとの関係性で観測者が受け取る意味も決定される。大きくわけると、作品位置を人間の目線と同じ高さにするか、上げるか、下げるか、の計3通りが考えられる。ここで重要なことは、それぞれが隠喩的な意味を持ちうるということである。

作品の高さについて、見上げる位置は「空」を想起させるし、見下ろす位置は「地面」を想起させる。作品の意味表象空間においては、別に現実世界と同様に上が空であり下が地面でなければならないなどという決まりや規則はないが、観測者は自身の過去の体験をもとになかば自動的に観測的身体動作自体から隠喩的に意味を受け取ることになる。

たとえば、仮に「翼を広げている鳥のオブジェ」が見下ろす位置にある場合には、作品として明らかな違和感がある。これは普段、人間は地上で生活していて空を飛ぶ鳥を見上げるという体験を基礎に持っているからにほかならない。この場合は、作品の意味表象にとって適切な位置でない(たとえば、「自由」と連想関係にある「空」を想起させるべく見上げる位置に置くべきだ)か、又は何らかの特殊な強い意味合い(たとえば、本来、空を飛ぶ鳥が見下ろす位置にあるということは自らが上空にいるということなのだ)を持つことになるかということになる。

この隠喩的な意味にも厳密には2通りがあり、ひとつは「空」の例のように光学的な見え方ないしは観測的動作そのものを隠喩とする場合、もうひとつは光学的な見え方を自然言語として表象した際にそれを隠喩とする場合である。後者については、たとえば、「上を向く」という日本語は「明るく前向きに生きる」ことの隠喩であると考えられるため、翼を広げている鳥のオブジェを見上げる位置に置くことで「希望」を意味表象することもできるであろう。

換喩的意味についてはここでは述べないが、とりあえずは、自身の過去の体験に照らして何が何の隠喩になっているか網羅的かつ逐次的な検討が必要であると思われる。このあたりは言語学的な隠喩の特性に従うものと思われるが、言語学的な隠喩の特性とは異なり、自身の意識外の物質的・身体的な要素から隠喩的意味を受け取ることもありうるという点について意識的に留意する必要がある。いや、意識外の要素を意識するというのはまったくの背理であるが、とはいえ、気づくか気づかないかの問題に結局のところ行きついてしまうと思われるので、対策としては、あらかじめ想定しうる考慮要素をストックしておくほかない。

【論点3】造形過程の明晰な言語化は可能なのか?
もちろん、伝統的なアーティストは以上のような意識化された思考回路を辿っているわけではないし、作品の〈意味内容〉が一義的に決まるわけでもない。ピカソは「探究するのではない、発見するのだ」と言っているし、ミケランジェロは「どのような石の塊も内部に彫像を秘めている。それを発見するのが彫刻家の仕事だ」と言っているようだし、造形過程は、なにかどうも受動的に降りてくるというか発見し、又は想起することと関連性があるようである。この点で、ソクラテスのいう「徳 arete」の振る舞い(想起説)に近い。この記事では説明のために造形過程を逐次に遡及的に意味表象させて論理で結びつけているが、それは専ら他人に対する説明のための要請に基づく派生物であって、実際の造形過程は無意識における〈意味のない音韻の時間的な通路〉を辿って結節されていくものである。造形の外の世界では、経済学者シュンペーターは「新結合/イノベーション」、APPLE創業者ジョブズは "Connecting the Dots"、文化人類学者レヴィ=ストロースは「ブリコラージュ」などと呼んでいる過程であり、心的現象としては、世界が輝き始めて自らと宇宙とが一体になる=すべてのものが繋がっていくかのような感覚が描写される傾向がある。ある種の神秘的な領域であり、その人の固有の背景や文脈を踏まえた結節作用であり、通常の言語的な説明が難しいが、絶対に説明できないというわけでもないとは思う。たとえそれが〈すべてではない〉にしても。

展示の考慮要素

以上のように、展示方法による意味削減にせよ、意味増強にせよ、とりあえず出会った要素を片っ端からストックしておくしか方法はない。いったん、以下のとおりメモ書きしておく。メモ書きは順次足されると思う。たぶん。きっと。

  • 作品の位置(高さ)

  • ほかの作品との間隔

  • 壁の色・テクスチャ

  • 側壁との間隔

  • 作品の額縁の有無・態様

  • スチレンボード・アートボードの利用の有無・態様

  • 台座・敷物の有無・色・テクスチャ・態様

  • 附属物の有無・態様

  • キャプションのパネルスタンドの有無・態様

  • 案内板の有無・態様

  • 照明の有無・明るさ・色合い

  • 窓の有無・大きさ・明るさ

  • 気温・室温

  • 音の有無・内容・程度

  • 風の有無・程度

  • 香りの有無・強さ・種類

  • 有名作家の展示方法との類似性

このうち、特に展示環境の色の面は作品への影響が大きいため、注意が必要である。

よく利用される展示方法

スチレンボードを利用したシンプルな展示例

講評者は展示方法に関心が高い傾向があるが、具体的な技法論は展示環境に依存することもあるためか必ずしも教えてくれるわけではない。というより、学生が当然知っているものか、学生自身で考えるものとして、何も言わないという印象である。「フォーティファイブ」とか「エーケーヨンジュウナナ」とかなら知っているが、「ゴーゴー」とか「ナナナナ」とか知らない者にとっては暗号性が高い(※注:デコラテックジャパン株式会社製スプレーのりの通称です。)。

写真 通称「ゴーゴー」

とりあえず展示イメージとしては美術館に行って実際に作品の展示方法を見てくるというのが手っ取り早いし、学内でも推奨されている。なるほど、美術館や店舗で展示方法という点を意識して眺めると、なかなか面白くなってくる。これまでその点を何も意識せずに眺めていたのはアホとしか言いようがないとさえ思えてくる。何の素材でどうやって制作しているのか、読める…読めるぞぉ…! しかし、実際のテクニカルな部分は、どうも学生は先輩に教えてもらったり、自分でネットで調べているようだ。

周囲の学生は、しばしばスチレンボードやアートボードを利用したいわゆる「パネル」を使っている。どうもプロも同様に用いる手法のようだ。はじめは何がいいのかさっぱりわからなかったが、パネルを用いることにより、単なる紙の印刷物の形態のときにはなかった高級感と安定感を獲得することができる。また、スチレンボードは、木材や金属などほかの素材のボードよりも圧倒的に軽く、運搬や搬入の面で非常に便利である。

パネルの作成にあたってアウトソースすることもできるが、少量のロットではコスパが悪い。そういうわけで、だいたいは自作である。美術系学部出身の学生に聞いたところ、「絶対、自分でつくったほうがいいですよ!」と市販の展示用品が使いものにならない旨のお言葉を頂戴したので、ここに記載しておく。ソウナンダシラナカッタヨ…

以下は、自作の際のメモと、いくつかの展示会場に行った際のメモである。

トレーニング用に自作したものについて、パネルは A4 サイズの 5mm 厚のスチレンボード(実際には A4 より大きく、はみ出た箇所はカッターナイフでカットする。カットの際は一度に切ろうとせず、何回か刃を引くこと。)で粘着シート付きのものを使っているが、粘着シートなしのもので両面テープを一面に敷き詰めても構わない。スプレーのり77でもいいのかもしれないが、試したことはない。

印刷物をスチレンボードの粘着部分に綺麗に貼り付けるところが最大の難関である。てきとうに貼り付けるとしわができて、見栄えがものすごく悪い。しわや気泡が入らないように慎重に丁寧に貼っていくこと。私は何度失敗したかわからない。

なお、作成したパネルについてパネルスタンドを使わないほうが高級感が出ることに注意されたい。ショップならともかく美術作品の展示向きではない。

「展示方法も作品の一部である」という原則からすれば、結局のところ、これも、作品世界を表現するための手段ということであろう。若干、表面的なところを重視している印象であり、やや邪道に見えてしまう気もしないではないが、実際、外見的なクオリティというものは様々なところで非常に高いレベルを要求される。デザインは外見を整えるだけではないだけであって、外見を整えることを否定的に見るわけではなく、結果的に外見は中身の一部として極めて重要なのだ。ウチ・ソト二元論ではなく、すべてが剝き出しの内側であり、その内側は中心点である作品の核から同心球状に侵食していくかのようであり、さながらひとつの膨張的宇宙である。きっと全体性のない多元的な宇宙観もこういうところから来ているのだろうな…

なお、宇宙同士が衝突したら、前述のとおり、宇宙戦争スペースのとりあいになるのだろう。

美術系の学生はどこで展示用資材を調達するのか

ということで、美術系学生の間でメジャーなお買い物スポットを紹介しよう。上のような展示用品をつくるうえで、まずは資材の調達が必要だ。電子工作における「秋月電子」であるのと同様のノリで、関東では、美術系は「世界堂」、建築系は「レモン画翆」とされている(らしい)。こういう内部で常識的なものほど、外からはわからなくて苦労する……

世界堂

そこで、世界堂に行ってみた。世界堂は新宿に本店が所在する。主に店舗は東京の西側に集中しており、東京の東側には店舗がないようだ。世界堂が有名になっているのは「値段の安さ」と「品揃えの豊富さ」が理由のようである。実際、品揃えは豊富であり、見ているだけでとても楽しい。近所のホームセンターよりも加工しやすい美術系素材が多くある。顧客層も多様であり、髪の色もカラフルなかんじである。

写真1 世界堂(新宿本店)の店舗正面

レモン画翆

他方で「レモン画翆」は特に建築の方面で有名な店舗であり、歴史的に藝大との結びつきがあるようだ。建築模型資材の調達でとても利用させてもらった。なぜ「レモン」なのかという点については、公式ウェブサイトの説明では「新鮮」のイメージのようである。

写真2 レモン画翆(御茶ノ水)の店舗正面

展示会場壁面の文字列について

画像 展示会場入口横の壁面の文字列の例

He-Ne レーザーを用いた小型の水平器を用いて、カッティングシート等を張り付けるようである。なんかフィルムに印刷して貼ってたので、今度、詳しく方法を聞いてみようと思う。

まとめ

作品の展示方法も作品の一部であり、展示方法が世界のあらゆるものを含むならば、世界は作品の一部なのだろう。

【稲葉】自分も同じことを言われました。展示方法も作品の一部だということは、一般的に当然のこととして受け容れられていると思います。たとえば、作品がなくてもポートフォリオ自体も作品になります。あとは、美術館とか、ほかの展示方法を見て勉強しろということも言われましたね。展示方法を見ていくとUXデザインに繋がっていきます。「世界堂」の入口から出口までの動線設計とかを見ていくと、そのUXがわかります。だからスーパーマーケットも楽しいですよね。展示自体は、まずは美術館や制作展を見ることが勉強になると思いますが。展示方法論の体系はないですが、イームズの展示方法が展示方法の原型だと言われます。多くの美術館や博物館の参考にされていると思います。美術館はもしかしたら少し違うかもしれませんが。また、展示会のコンセプト次第で展示方法も変わります。意味の削減と増強ということでしたが、基本的には「どう見せたいか」なのかなと。展示会はコンセプトを持っているので、展示会自体の意味という観点もあります。こういったことはキュレーターやディレクターという人がやっていることですね。

(執筆者:平塚翔太)

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